2016年11月16日水曜日

ベストセラー GENIUS

フィッツジェラルドとヘミングウェイを発掘した、出版社スクリブナーの名編集者、マックスウェル・パーキンズの自伝に基づいた映画。と言っても映画で取り上げられているのは、彼らに比べると今ではあまり知られていない小説家トマス・ウルフとの交流の部分である。

しかしチョイ役とはいえ、ガイ・ピアースがフィッツジェラルドを演じているのが、フィッツジェラルドが文学的故郷の一つである私にとっては、垂涎もの。ここでのガイ・ピアースの役どころは、『ミッドナイト・イン・パリ』の華やかなフィッツジェラルドではなく、本が売れず、何も書けず、妻ゼルダは精神病で、苦悩しながらも何とか希望を繋いで生きている、ナーヴァスなフィッツジェラルドである。私としては、ウルフよりこちらの方に心惹かれる。1920年代のニューヨークの街並みに立つ白いビルディングの横に書かれた、SCRIBNER'S SONSの文字に胸がキュンとするのは、私だけではないはずだ。

ニューヨークが舞台のアメリカ人の話であるのに、メインの俳優がコリン・ファースであるところも嬉しい。マックスウェル・パーキンスはニュー・イングランド気質ほぼ=イギリス気質であり、感情を表に出さず、まさにstill water runs deepというタイプで、コリン・ファースにとっては、いつもの役柄なのだが、やはり美しい。対するトマス・ウルフは、アメリカン・イノセンスの代表なのだが、これもまたイギリス人俳優のジュード・ロウが演じている。アクセントは頑張ってアメリカンに変えているが、こちらも素晴らしくハマりである。アメリカン・ビジネスマンではなく、アメリカン・イノセンスだから、ジュード・ロウでいいのだ。この父子カップルを、コリンとジュードが演じているのが、抑制の両側にあるイギリス性の二面性を表しているようだ。

マックスウェル・パーキンスの伝記を読んだプロデューサー?がこの本の映画化を考えてから映画が実現するまで、何と17年もかかっているという。コリンは早い段階で脚本を読んでおり、長年この役を演じたいと思っていたそうだ。そういえばトマス・ウルフのパートナーの役はニコル・キッドマンが演っているのだが、それは彼女が実際に、芸術家のパトロン?として苦労しているからであるらしい。ニコル・キッドマンといえば、『リリーのすべて』の映画化を熱望したのも彼女である。結局リリーはエディー・レッドメインが演じることになったが、『リリーのすべて』の映画化までにも、同じように長い年月がかかっている。数多の困難を経ながら見事に実現されたこれらの映画たちに、惜しみない讃嘆の念を捧げたい。


2016年10月21日金曜日

キャリントン

『キャリントン』Carrington (1995)。胸を掴まれるような映画だった。それは何よりも、リットン・ストレーチーに胸を掴まれたのだと思う。ジョナサン・プライスは、この演技で1995年のカンヌの男優賞を取っている。映画自体も、審査員特別賞と、脚本賞を取っている。脚本は監督クリストファー・ハンプトンで、原作はリットン・ストレイチーの伝記である。伝記を書いたマイケル・ホルロイドは、ストレイチーの伝記の中に、当時の芸術家たちの人間模様を描いたのだと書いている。この映画が中心にするのは、ストレイチーではなく彼のパートナー、キャリントンである。

エマ・トンプソンのキャリントンはもちろんいいのだが、しかし圧倒的にいいのは、やはりリットンである。映画の始まりは1915年で、リットンは戦争忌避者として名乗りを上げて、いきなり裁判にかかる。声高に、攻撃的に主張しているのではなく、あくまでも飄々とかわしているところが、可愛らしい。そう、ヤギのような髭をたたえたおじさんなのだが、とにかく可愛いのである。終盤で、若いオックスフォードの大学生の恋人(リットンはゲイである)に入れ込みすぎて振られて、静かに泣いているところもあった。書くことが好きな作家なんているのかな、僕には苦痛でしかないよ、と言うところもある。ヴァージニア・ウルフに求婚したんだ、とキャリントンに打ち明け、彼女は承諾したの、とキャリントンが聞くと、そう、だから大変だったんだ、とボソッと言う。そう、いつも何かボソっと言うのだ。その知性的な慎みの言葉が、心に刺さる。

でも君には求婚したいな、と彼はキャリントンに言う。結局結婚はせず、死ぬ前に、僕は君を愛している、なぜ結婚しなかったのだろう、と言うのが、遺言のようになっていた。出会って惹かれあってから一緒に暮らしていた二人だが、リットンが女性の肉体に反応しないため、お互いの性向を満たす相手が入れ替わり立ち代り現れて、三人や四人で同居生活を送る。そこに例えば不倫、と言うような言葉は何か似つかわしくない。それは彼らが真摯に築いた生活だった。

リットンは作家であり、キャリントンは画家である。リットンは本を出版して成功したが、キャリントンは評価を得ていながら、個展の誘いなどは断っていた。彼女に取っては絵を描くことは精神の営みであり、世俗に名を売るといったことには関心がなかったのである。

その代わりにこの映画にあるもの、それはセックスであるといってもいい。わざとそう言ったが、もちろんそれは愛ということだ。ボーイッシュなキャリントンを見たリットンは少年だと思い、彼女を見初める。女性であるとわかっても、彼女の魅力的な耳にキスをする。彼女はそれを許さないが、彼の寝顔を見て好きになってしまう。その時彼女が付き合っていた男と、すでに28歳であったにもかかわらず、彼女はどうしてもセックスしたくない。

それからまた別の男レイフが現れて、三人の共同生活を始め、レイフはやがてキャリントンに結婚を迫る。レイフとキャリントンは結婚するが、結局キャリントンはレイフの友人ジェラルドと、レイフも別の女性と、情事に陥る。ジェラルドはスペインに行ってしまい、キャリントンはリットンを見捨てられずに留まる。本当に愛していたのはリットンだけだが、彼がゲイであったために、他の男と肉体的な関係を結ぶ、という自由で緩やかな愛の形だったようだ。最後の男ジョージは船員で、知性も芸術性もない男だったが、キャリントンは性的にもっとも満たされた。

やがてリットンは病死し、キャリントンは猟銃で後追い自殺をする。側から見れば数奇な同居生活だったのかもしれない。しかしキャリントンは、私たちはこの上なく幸せだった、と言う。それは彼らにとって、人生を、愛を誠実に追求した、魂にもっとも近い愛の形の、模索と実践だったのだ。

2016年10月18日火曜日

6才のボクが、大人になるまで リチャード・リンクレイター監督

『6才のボクが、大人になるまで』(2014)。166分があっという間な、素晴らしく愛おしい映画。6才の子供が18才になって大学に入学するまでを、12年間かけて追っている。子供がどんどん大きくなっていくのが、断続的につながっていて、前のシーンと後のシーンとで、顔が全く違うように変わっているのが、とてもリアルだ。

それもそのはず、例えば『フォレスト・ガンプ』のように、子供の時の話は子役がやり、それが不自然でない時期になると大人役(ガンプならトム・ハンクス)のメイン俳優がやり、月日の流れを見せるために違うヘアスタイルや服装にしている、というのとは、全く違う。本当に月日が経っているからだ。12年間が166分に詰め込まれているから、単純計算すれば1年分は14分にしかならない。だから主人公(エラー・コルトレーン)の顔も、主人公の姉(じつは監督の娘、ローレライ・リンクレイター)の顔も、ついさっき見た顔と全然違うのである。

それでいてというか、だからというか、エピソードの新鮮なつながりが、見ていて全く飽きない。それはドラマティックに仕込まれた物語ではなく、極めて日常的なエピソードの積み重ねであるにもかかわらず、そしてそれゆえに、とてもフレッシュで、そのフレッシュさは、顔や髪型やその色やネイルの色などが目まぐるしく変わることに、呼応しているのである。つまり、わざと変えているのではなく、自然に変わっている、ルックスにだ。だからとても自然で、とても心地よく、わざとらしいところが、全くない。

しかし、そのフレッシュさの依って来るところは、単にリアルな日常を撮ったから、なのではない。この映画はドキュメンタリーではない。物語である。監督は、子供時代の映画を撮ろうと思ったのだ、と言っている。そうは言っていないけれど、もちろん自分の、である。舞台になっているオースティンは、監督の出身地だ。父親が母親と離婚して別の女性と再婚したのも、離婚した母親が社会人入学で大学に入って心理学を勉強したのも、リンクレイター自身の両親と同じだ。

しかしリンクレイターは、自分の話をベースにしながら、それを12年にわたって演じてくれる俳優たちに、前回撮ってから今回までの間に生起した人生の話も織り交ぜて脚本を書いたので、撮影の前日くらいにしかそれは出来上がらなかった。親も素晴らしいのだがコルトレーンが素晴らしく、ちょっとフェミニンで繊細で芸術家気質で、写真に熱中して、暗室に篭って教師に説教されたりするところがリアルなのは、多分監督本人のエピソードで、コルトレーンが監督とシンクロするキャラクターだからなのだろう。

これは物語なのだけれど、まさに彼らの人生の物語であり、つねにフレッシュなその魅力が、この映画には12年分詰まっている。ドキュメンタリーでもない、お決まりのストーリーでもない、12年も普通は撮り続けることはできないという意味で、映画を超えているのだが、まさにこれこそは映画なのである。

2016年10月15日土曜日

海街diary 是枝裕和

 
是枝は自分で、気がつくと見捨てられた子供たちばかり撮っている、と書いている。原作の吉田秋生は、映画を見ると確かにそうなっている、という書き方をしているので、原作は必ずしもそうではないらしい。しかし是枝は原作に惚れ込んでおり、原作の味わいを壊さないように作ったと言っていたはずである。家の縁側のショットが、『クーリンチェ殺人事件』のエドワード・ヤンだった。クーリンチェも、だらしない親の世代に対して、子供たちが自分たちの世界を作り、そして破滅していく話である。

 この話は、綾瀬はるかと広瀬すずが、しっかり者の主人公なのだが、それは実は子供時代を奪われていたからだという。親はとにかく究極のダメ人間ばかり。子供を育てるという責任をみな放棄して、自分のやりたいこと(というか次の男)の方へ行ってしまう。そして上の子供は親代わりとしてがんばる。

 しかし綾瀬はるかは、じつは自分の親と同じことをしている。つまり既婚の男と恋愛関係にあるのである。それで広瀬すずが、自分の母親のことを恥じて、結婚している男の人を好きになるなんて良くないですよね、と綾瀬はるかに言ったとき、彼女が見せる曇った表情が、素晴らしい。ダメな両親と同じことをしている自分にダメ出しをする彼女の表情が、美しく現されている。そこで彼女は、人生のどうしようもなさを知る。親を許しはしないまでも、彼らに対する理解の風が、一瞬吹き抜ける、といったところか。

 是枝の映画には、家族の喪失が、家族の再生(作り直し)によってしか補えない、子供時代の記憶は子供を育てることでその生き直しをすることによってしか補えない、といったテーマが、一貫している。あるいは、失われた人生のやり直し、といったようなこと。それは『ワンダフルライフ』で、香川京子との結婚生活を戦死によって阻まれたARATAが、死後五十年くらいの歳月を、死者を送り出す場所に留まった末に冥界でやり直していたのと、同じである。

 是枝の映画に出てくる、優しいけれどもダメな父親というのは、恐らくは、とりもなおさず彼自身の父親(または彼らの世代)なのであって、そうすると彼が描いている置いてきぼりにされた子供たちというのは、自分(たち)のことだということになる。彼の映画は、強い父親に守られずに育ったために、ダメ男風(実際には芸術家として大成している)な自分の大変な人生を肯定するための映画だ、ということにもなる。

2016年10月2日日曜日

カンバーバッチ 『ホーキング』

 
今授業でホーキングばっかりやっている。エディー・レッドメインの『博士と彼女のセオリー』と、別のクラスでカンバーバッチの『ホーキング』。『博士と彼女のセオリー』は文句なく面白く、3度くらいは泣いたが、カンバーバッチの方は、それに比べると地味な始まりだ。しかし最後まで見ると、別の面白さがあって、これはこれで感動的だった。

 『博士と彼女のセオリー』は、最初の妻ジェーンの回想録を基にしているので、基本的には、二人の物語になっている。それで映画としては見やすいわけだが、『ホーキング』は、彼が自分のテーマすなわち自分の人生を見つけるための道のりを描いた映画になっている。そのテーマ/人生に、ジェーンも重要な存在として入ってくる、という感じだ。

 当然ながら、彼の人生/テーマの中軸は、彼の研究対象であるビッグバンであり、映画はそれがよくわかる作りになっている。いや、実際は、何の予備知識もなく1度見て彼の理論が一般的理解としてわかるわけではない。しかしあくまでも一般的理解としてだが、その後に映画ホーキングについての記事を読むくらいで、なるほどと思えるように、映画はできている。

 彼が博士課程の学生だった当時、宇宙論の分野で支配的なのは、定常性理論だった。宇宙は常にそこにあり、あり続けるだろう、というものだ。つまり宇宙には始まりも終わりもない。ホーキングはこの考えが何か違うと感じ、その主導者であるホイルの論文を入手して、計算の誤りを発見し、彼の発表の際にそれを指摘した。この時指導教官に、人の誤りを探していないで自分で独創的な研究をしろ、とたしなめられる場面は、彼のモティベーションを促した出来事として、映画において印象的なところのひとつだ。

 映画ではその後に、ロンドン大のロジャー・ペンローズとの出会いが来る。ペンローズは、星がその生命を終えると、その崩壊は無限に続き、無限に濃密なものとなって、それがブラックホールを形成する、と考えた。ブラックホールの中心にあるものが、特異点だ。ホーキングはペンローズの理論を逆向きに考えることを思いついた。星の始まりはブラックホールだった、というものだ。何かが無に崩壊していくのではなく、無が何かに爆発する、というように。そしてひとつの星ではなく宇宙全体にこの理論を適用したら?ここに彼は博士論文のテーマを見出した。宇宙の始まりはあり、それはビッグバン、大きな爆発だったのだ、と。時間と空間は、ビッグバンによって生まれたのだ。

 そのような大爆発があれば、熱放射があるはずだが、ないではないか、とホーキングは反論された。これを計測で証明したのが、アメリカのペンジアス(ドイツ生まれのユダヤ人)とウィルソンだ。その彼らがノーベル賞を受賞して、インタビューを受けている様子が、映画の中で断続的に挿入される。最初見ていると、これは一体誰なのか、と思うのだが、最後になって、それが生きてくる。彼らによってホーキングの理論の物質的な裏付けが得られたからだ。

 最後の場面で指導教官がホーキングの父親に、彼の業績を説明しているところがある。彼はアインシュタインが予測していたらしいが追求するのをやめたこと、つまり宇宙はいつもそこにあったのではなくて始まりがあったということを証明した、アインシュタインを美しくした(He's made Einstein beautiful)のだ、と。このアインシュタインを美しくした、という説明に、心を掴まれる。

 スティーヴ・ジョブズの家にも、アインシュタインの大きなポスターが貼られていた。アインシュタインといえば、すべての、美しくはあまりない社会の抑圧に屈せず、美しい理論、美しい世界を追求する人々のシンボル的な存在だ。学校の成績だとか、世間のうるさい規則だとか、そういうものより自分の思った道を行く。ALSを発症したという身体的不運も重なって、そして離婚はしたものの、ジェーンという素晴らしい理解者・同伴者を見つけて、彼は自分の理論に邁進した。それは、科学で業績を上げようという世俗の欲望を超えた、美しいものを見上げてそれに向かって人生を進めていく、彼の精神を表している。もちろん実際にずば抜けた知力も伴っていたわけだが。「足元を見るのではなく星を見上げること」「絶対に仕事をあきらめないこと」等々の、ホーキング語録は、このような彼の人間性を語っている。

 エディー・レッドメインや、カンバーバッチといった英国俳優は、こうした意味でホーキングの精神的同類だ。だから彼らはホーキングのようなお茶目な天才を演じてハマり、深い感動を与えることができる。これについてはまた別に書く必要がありそうです。
 
 
 
 
 
 
 

2013年7月29日月曜日

小津安二郎『秋日和』@シネ・ヌーヴォ


 『秋日和』で、ダブル縁談騒動が一件落着し、中村伸郎と佐分利信と北竜二が酒を酌み交わしている席で、中村と佐分利は、いやあ、面白かった、面白かった、と連発する。この「面白い」騒ぎは紛れもなく、『夏の夜の夢』の森の中の騒動に相当するものだ。差し詰めこの「高等猥談」トリオは、道化の3人組ということになるのだろうか。騒ぎを仕掛けるのだから、佐分利がオベロンで中村がパック、というところか。最終的に面白くもなく振り出しに戻る北竜二が、ボトムなのかもしれない。

  それにしても小津の映画は、言うまでもないけれど、ファミリーロマンスである。司葉子の恋愛の対象は、佐田啓二ではなく、原節子なのだ。再婚なんて穢いわ、と原節子に言う司葉子は、当然のことながら母の「浮気」、「移り気」に嫉妬している。ガートルードの再婚に激昂しているハムレットそのままである。そういう意味では、オフェーリアと佐田啓二は同様に、ただの囮のような存在である。同性愛者がカモフラージュに結婚する相手のようなものだ。同性愛ではなく(そうなのかもしれないと思う)、マザコンなのだけれど。

  これをウェットとドライと形容するのも、取り繕いである。司葉子はウェットであるというのはマザコンのことであり、岡田茉利子がドライであるというのは、リアリスティックで大人であるということである。マザコンは、大人になりたくないファンタジー(polymorphous of perverse)の世界における恋愛様式である。小津の世界では、大人になることをドライと形容するらしい。もっとも確かに、岡田茉利子は強すぎて、リアルな大人すぎるきらいはある。父の後妻である現母親に対して気を使っているように見えないとすればそれは、自分の「演技」がうまいからだと言っている。すったもんだの騒ぎは、司葉子には通過儀礼として作用するように物語は作られているが、実際の司葉子がどれだけ人格の変容を被ったかということはまったく描かれない(原節子に対して、穢いわ、と言ったことを、もういいのよ、とは言うが)。原節子はあくまでも、「子供」のままに留められる。だから死んだ夫の写真すらもない、死んだ夫の存在などない。再婚などするわけもない。智衆にも、配偶者がいないようだ。

  岡田茉利子の母親が義理であるというのは、『母を恋はずや』の兄の場合と同じである。この場合は主人公は、実の息子である弟ではなく、養子である兄の方である。『東京の女』は、母親のような存在を姉が演じている。両親はいないのだ。この姉弟はあたかも(プラトニックな)近親相姦のような関係にあるので、姉が自分を一人前にするために夜の女をやっていることに弟は耐えられず、自殺する。この、自殺というのが、学生の書く小説みたいで、取ってつけたようで安直であった。急場しのぎで作った映画だということなのだが。

 『お早よう』の反抗的でやんちゃな息子は、オレのことなんだ、と内田樹は言っていたが、それは小津の自画像でもあるのだろう。佐田啓二が、親は大事にしなきゃいけないな、つまらないことで怒ったときの母親の顔が忘れられない、と言っていたのも、自分のことなのだろう。それを言うなら、例えば『非常線の女』の田中絹代が、最初は恋人を取られると思った水久保澄子に会って自分も感化され、あくまでも恋人と自分を更生させようとする、というのも、与太者であった過去の自分を更生させようとする小津の象徴的自叙伝なのだ、とも言える。

2013年6月17日月曜日

チャップリンの『ライムライト』




最初から最後まで、緊張の持続である。ヒッチコックもそうなのだが、ダラダラした場面がまったくない。途中、これって『スタア誕生』だったのね、と思ったが、スタア誕生は確か、スタアが主役であるのに対し、『ライムライト』はあくまでも、カルヴェロが主役である。バレリーナのヒロインが、劇場は嫌いだって言っていたじゃない、田舎へ行きましょう、あなたの面倒を見るわ、と言うのに対し、カルヴェロは、私は血も嫌いだが、それは私の血管の中を流れている、という名言を吐く。そして記念公演の大成功の後、これからずっとこうなのだ、2人で世界ツアーだ、と息巻いて、劇場で死ぬのであった。

『巴里の女性』のヒロインと「犬の生活」の浮浪者は田舎に戻り、『サーカス』や『モダンタイムス』のトランプは、一本道を歩いていく(『サーカス』では一人で、『モダンタイムス』では二人で)。劇場で死ぬ、というエンディングは、ついに行き着くべくして行き着いた、というところ。もっともそれまでは、「死」がお話の中に入り込む余地もなかったわけだ。

しかし、考えてみれば、Show must go on.で終わるエンディングも、今まではなかったのである。一本道を歩いていく先にあるのは、とりあえずはショーではない。結局はショーに行き着くしかない、ということを、『ライムライト』では確認した、というべきだろうか。それもそうだろうが、もうショーに立てる年齢ではなくなって、ショーにノスタルジアを覚えている、という方が正しいだろう。しかしやっぱり立てない。というわけでできたのが、『ライムライト』だ。

それにしても、チャップリンのトーキーへの抵抗は、正しかった。『ライムライト』で披露されている歌詞つきの歌よりも、『モダンタイムス』のナンセンス歌詞の歌の方が、はるかに生き生きしている。少なくともチャップリンは、喋りなしのマイムの方が、ずっと面白いのである。ミュージックホールの芸を、音なしで再現したところに、革新的な芸術が成立したのだ。

チャップリンが喋ると、チャップリン本人の地がすぐに出て、彼の哲学的演説になってしまう。演説の中身は、正論である。彼がそれを真実であると言って、真実を追求したい、と言うのも正しい。しかしそうすると、芸術作品がプロパガンダみたいになってしまう。芸術として正しい範囲に、収まってはいるが。それに、彼の言っていることは、特定のイズムに奉仕することのない、より漠然としたヒューマニズムみたいなことだから、プロパガンダというのも、少し違う。


たぶん、チャップリンが進んでいった芸術の方向は、19世紀の最高の小説がもたらすような、文学的な効果なのではないかと思う。トーキーの到来とともに喋らざるをえなくなった彼は、それを、映像そのものばかりでなく、言葉で伝えずにはいられなかった。逆説めくが、つまり小説的、文学的なのだ。

グルーチョならば、あのマシンガントークがあった方が、マイムだけより面白いのだけれど、チャップリンは、芸としてのマシンガン・トークをしない。そう、『ライムライト』でヒロインのテリー(クレア・ブルーム)と、作曲家のネヴィルは、お互い自分たちは内気だから、と言っていた。「内気な」チャーリーには、『黄金狂時代』で喋るの得意じゃないから代わりに、と言って披露したロールパンのダンスが、とてもとてもよく似合う。