2009年9月8日火曜日

人文主義の暗黒時代を嗤い飛ばす ~高橋康也『道化の文学』

(「異文化理解教育 第2号」のために書いたブック・レヴュー)

 「笑い」に纏わる概念を色々と検証していると、それらが様々な時代背景に根差していることに気づく。すなわち、ルネサンス時代は「道化」、18世紀は「諷刺」、19世紀は「ノンセンス」、20世紀は「アブサード(不条理)」だ。厳格な中世の世界システムの下部構造に存在する、じつにのびやかな「自然(フィシス)」の呵呵大笑たる民衆の「祝祭(カーニヴァル)」の笑いを、言語化するという自意識が開花したのは、ルネサンス時代のことである。これら喜劇の様相の変化は、時代において「自然(フィシス)」という言葉の持つ意味作用の変質と、軌を一にしているが、「道化」は近代の曙でありながらまだ中世の尻尾を引き摺っている、ルネサンス時代の寵児である。

バカをやりながらさりげなくご主人様の硬直を笑いの中に指摘するのが、「道化」である。では彼は「賢」なのか「愚」なのか、「狂気」なのか「正気」なのか、悪徳なのか美徳なのか。「道化」の任務は、まさにそのような二者択一的設問の根拠となる枠組をとっぱらうことである、と高橋は言う。「愚者・阿呆・白痴・狂人・職業的道化――これらの意味を未分化のまま孕んだ複合体(コンプレックス)として、「道化」は理解されなくてはならない。その未分化の多義性の中にこそ、本書の主題たるルネサンス文学の「道化」の栄光の秘密があるのではないか。逆にいえば、十七世紀半ば以降、多義性が合理的に整序されたとき、「道化」の栄光は終焉するのではあるまいか…。」

ここでは「道化」の系譜のギリギリ最後の例をあげよう。シェイクスピアの円熟喜劇時代の最後を飾る『十二夜』には、フェステという道化が登場する(彼以降の「道化」はかなり変質した形をとる)。この芝居における彼の最大の標的マルヴォリオは、「こわばり」の極地のマジメ人間で、あらゆる遊び・笑い・ふざけに対して深い敵意を抱き、主人の客の貴族サー・トビーやサー・アンドルーたちの浮かれ騒いだ快楽主義を禁圧しようとする。しかもマルヴォリオは、そのピューリタン的禁欲の外見のかげに、主人オリヴィアへの淫らな欲望を隠している。フェステたちは、マルヴォリオの偽善を暴くべく、悪戯の手紙で嵌めてオリヴィアが彼を恋慕っている、と思い込ませ、それを知らないオリヴィアに対して奇怪な言動を取らせた上で、「狂人」として牢屋に入れてしまう。袋叩きにあわされたマルヴォリオは、「お前たちみんなにいつか仕返しをしてやるぞ」と叫んで退場する。

道化たるフェステは、当時台頭しつつあった反祝祭のピューリタン的タイプのマルヴォリオの「こわばり」を笑いの矢で攻撃するのだが、すでにシェイクスピアはピューリタン革命による祝祭勢力/演劇の粛清を見透かしており、『十二夜』はむしろ喜劇的多義性への挽歌と読める。中世と近代との転換期に生きる道化は、時代の変遷と不可避に進行する認識構造の変化の只中で、古い意味と新しい意味の間のガラスを自在に通過して生き延びる。だが時代が一義的な合理主義的近代へと突入するにつれ、「賢」と「愚」とを併せ呑む多義的存在としての道化は、消滅してゆくのである。

道化は中心に対して対位法的視点を提供し、中心を相対化する働きをもつが、それは逆にいえば中心の存在を前提としている。現代は境界例の時代であって、もはや確固たる中心などどこにも存在しない。人々は究極まで煮詰まった拝金主義によって、空虚な中心を埋めているが、日々生起している有象無象の現象は、その歪みを我々に暴きたてつづける。そのような世の中にあってなお益々功利主義を強め、祝祭的・人文主義的勢力を殺ぎ落とそうとしている一体のマルヴォリオたる現代日本に必要なのは、フェステの哄笑なのではないだろうか。では現代における変質した形での「道化」とは、どのような形をとって現れ得るのか。

 そんなことを考えながら、わたしは人文主義の暗黒時代に、コメディ研究をつづけている。