2013年7月29日月曜日

小津安二郎『秋日和』@シネ・ヌーヴォ


 『秋日和』で、ダブル縁談騒動が一件落着し、中村伸郎と佐分利信と北竜二が酒を酌み交わしている席で、中村と佐分利は、いやあ、面白かった、面白かった、と連発する。この「面白い」騒ぎは紛れもなく、『夏の夜の夢』の森の中の騒動に相当するものだ。差し詰めこの「高等猥談」トリオは、道化の3人組ということになるのだろうか。騒ぎを仕掛けるのだから、佐分利がオベロンで中村がパック、というところか。最終的に面白くもなく振り出しに戻る北竜二が、ボトムなのかもしれない。

  それにしても小津の映画は、言うまでもないけれど、ファミリーロマンスである。司葉子の恋愛の対象は、佐田啓二ではなく、原節子なのだ。再婚なんて穢いわ、と原節子に言う司葉子は、当然のことながら母の「浮気」、「移り気」に嫉妬している。ガートルードの再婚に激昂しているハムレットそのままである。そういう意味では、オフェーリアと佐田啓二は同様に、ただの囮のような存在である。同性愛者がカモフラージュに結婚する相手のようなものだ。同性愛ではなく(そうなのかもしれないと思う)、マザコンなのだけれど。

  これをウェットとドライと形容するのも、取り繕いである。司葉子はウェットであるというのはマザコンのことであり、岡田茉利子がドライであるというのは、リアリスティックで大人であるということである。マザコンは、大人になりたくないファンタジー(polymorphous of perverse)の世界における恋愛様式である。小津の世界では、大人になることをドライと形容するらしい。もっとも確かに、岡田茉利子は強すぎて、リアルな大人すぎるきらいはある。父の後妻である現母親に対して気を使っているように見えないとすればそれは、自分の「演技」がうまいからだと言っている。すったもんだの騒ぎは、司葉子には通過儀礼として作用するように物語は作られているが、実際の司葉子がどれだけ人格の変容を被ったかということはまったく描かれない(原節子に対して、穢いわ、と言ったことを、もういいのよ、とは言うが)。原節子はあくまでも、「子供」のままに留められる。だから死んだ夫の写真すらもない、死んだ夫の存在などない。再婚などするわけもない。智衆にも、配偶者がいないようだ。

  岡田茉利子の母親が義理であるというのは、『母を恋はずや』の兄の場合と同じである。この場合は主人公は、実の息子である弟ではなく、養子である兄の方である。『東京の女』は、母親のような存在を姉が演じている。両親はいないのだ。この姉弟はあたかも(プラトニックな)近親相姦のような関係にあるので、姉が自分を一人前にするために夜の女をやっていることに弟は耐えられず、自殺する。この、自殺というのが、学生の書く小説みたいで、取ってつけたようで安直であった。急場しのぎで作った映画だということなのだが。

 『お早よう』の反抗的でやんちゃな息子は、オレのことなんだ、と内田樹は言っていたが、それは小津の自画像でもあるのだろう。佐田啓二が、親は大事にしなきゃいけないな、つまらないことで怒ったときの母親の顔が忘れられない、と言っていたのも、自分のことなのだろう。それを言うなら、例えば『非常線の女』の田中絹代が、最初は恋人を取られると思った水久保澄子に会って自分も感化され、あくまでも恋人と自分を更生させようとする、というのも、与太者であった過去の自分を更生させようとする小津の象徴的自叙伝なのだ、とも言える。