2011年2月4日金曜日

ろくでなし啄木@シアターBRAVA!~「啄木の二面性」とは?


 藤原竜也に一緒に何かやりましょう、と依頼を受けた三谷幸喜は、啄木の二面性を藤原に演じさせるのは面白いのではないか、と考えて、『ろくでなし啄木』の構想を練ったという。しかし、啄木の二面性とは何なのだろうか。この芝居に描かれている(虚構の)事件は、啄木が『ローマ字日記』を書いていた頃に設定されている。ローマ字で日記を書くということ自体が、まず二面性の現れだということなのだろう。つまり自分が本当に考えていることは隠す、ということだ。啄木がこの日記をローマ字で書いたのは、妻に読まれないため、ということになっているが、日本語の表記法の実験の意味合いもあり、最初の喀血の日に、『字音カナヅカヒ便覧』を写す、などということもやっている。意図的にしろ結果的にしろ、ローマ字で書くことは文体的な実験であることは論をまたなくて、つまりそれによって啄木は、束の間の精神的、倫理的、伝統的抑圧から自由な世界を書きとめ得た。もっとも、だから『ローマ字日記』がすぐれた文学作品になっているかというと、そういうわけでもない。少なくとも中学時代は大の啄木ファンであったわたしなので、悪気があって言うわけではないが、文学作品として見れば、せいぜいが二流の私小説である。日記とはそういうものなのだからそれでいいのだが、同じ日記でも、永井荷風の『断腸亭日乗』のようなダンディズムからはまったく無縁である。啄木にとってそのような自己表現の最高の文体は、短歌に他ならなかったわけで、『ローマ字日記』は、そうしたフォームに到達するまでの孵化期の記録とみるのが、まず順当なところだろう。

 で、この『ローマ字日記』の作者は、芸術的孵化期に何をしていたかというと、病と貧窮に苦しみ、文学芸術や思想的な問題に悩みつつ、基本的には、女を買っていた。というのが、三谷の芝居の啄木が、「ろくでなし」である由縁である。芝居の中で石川啄木つまり一(啄木の本名)は、トミ(吹石一恵)という女と恋仲にあり、彼女のことが今でも好きで、ろくでなしの一に金を用立ててやる親友のテツ(中村勘太郎)と一緒に、温泉宿に来ている。借金で首が回らなくなっていて、人に迷惑をかけ続けているのに、吉原やギャンブルに浪費ばかりしている。トミはそれを知っているが、それは彼女の親友が彼女に教えてくれたから。一はしらを切り通し、悪いのは自分ではなくその友だちであるという詭弁をなめらかに繰り出してみせ、このあたりは(わたしを含めた)現代の女性観客にも、「ああ、だめんず」という溜息を誘うところだ。二面性というのは、イノセントな抒情詩人というイメージの啄木が、中身をみてみるとただのだめんずである、というところに起因しているのだろう。もっとも、ここでの一は、まだ大したものを書いていないからだめんずなのであって、その後『一握の砂』を発表した彼のステイタスは、一流の文学者に昇華される。

 当座はろくでなしの物書きである彼の二面性は、嘘つきというところに現れているらしい。それを表現するための語りのデバイスが、芥川龍之介の『藪の中』、そしてそれを映画化した黒澤の『羅生門』に借りた、三者三様の異なった語りの視点である。『藪の中』では、盗人が女を暴行してその夫の武士は殺されるが、誰が武士を殺したのかという真相は誰にも分からない。暴行と殺人(ないし自害)という事実はおそらく揺るぎがないが、その経緯を語る三者の語りはまったくバラバラである。ある出来事は、それを見、認識する者の頭の中でまったく様々に解釈されて物語られるものであって、本当はこれが正しかったというような「事実」など、じつはどこにも存在しない。ということを、『藪の中』は描いているのだと思うが、プロットの外形とその語り方を『藪の中』に借りた『ろくでなし啄木』には、れっきとした「中心」がある。それは啄木の意識である。『ハムレット』の独白もやったことのある藤原竜也の、最後の独白は圧巻だが、それまでは、それぞれトミとテツの視点から語られる、一の策略の物語である。そして一の策略とは、そのようなワルぶり、ろくでなしぶりの演技(そう、それもまたひとつの「演技」なのであって、隠された「真実」であるわけではない)に疲弊してもいる彼が、「底」にある自分の状況に耐えかねて、彼らに自分を殺させようとすることだった。ところが、嵌めに嵌められても純朴なトミとテツは、一に憎しみを持って殺意を抱くということにならず、一の策略は失敗してしまう。その後一は行方をくらまし、やがて妻子を呼んで一緒に住み、『一握の砂』を書く、という筋書きが、トミとテツとによって語られる。

 そういうわけでこのエロティック・サスペンスは、じつは通過儀礼の物語になっていた。自分を殺させる舞台を演出する主人公(そしてそれに失敗して大成する)というのが、謎解きの答えである。そこでわたしはまた、啄木の二面性ということがわからなくなる。死の願望を抱えた文学者がそのための舞台を演出する、そのどこに二面性があるというのだろう。むしろ彼のように真摯な、裏表のない人間はいないようにおもえる。『藪の中』は、特定の人間の例えば欺瞞性といったことではなく、認知ということに内在する決定不可能性を書いている。他方『ろくでなし啄木』は結局のところ、ろくでなしの文学者の真摯な生/死を描いているのだが、欺瞞的な二面性といったことから、それほど遠いところにあるものはない。偽装されたロマン主義という意味では、これは正統的にモダンな作品である。一とトミとの「濡れ場」や、テツとの(策略的な)「過ち」の場面は、むしろコミックに演じられていたけれど、脂の乗りまくった藤原竜也(と三谷幸喜の脚本)がムンムンと発していた色気は、確かに尋常ではなかった。この作品がエロティックであったとすれば、それは例えばセックスにではなく、石川一(そして藤原竜也)の、若いろくでなしな真摯さからきているように思われた。