2010年1月31日日曜日

こなごなな社会に拮抗するためのルプレザンタシオン ――蒲池美鶴『シェイクスピアのアナモルフォーズ』(研究社、1999年)、古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』(講談社、2007年)

コロンブスの卵の話は、「果敢な視点の転換」に関する逸話であるが、その話を聞いて、心の中でそっと、「でも、卵は割れてしまったんだね…」と呟く人もいる。1980年代以降のエリザベス朝演劇批評の流れを見ていると、なぜかこのエピソードが思い出されて仕方がない、と蒲池美鶴は書いている。「そもそも、卵は割らなければ立たないものなのだろうか?…素晴らしい批評理論をあてはめて解剖した後の作品がバラバラ死体として横たわっている光景を見るのは悲しいものである」。バラバラ死体のような時代であるのならば、バラバラ死体のような文芸批評が流行するのも、時代の表象というものだろう、というのは、シェイクスピアでいえば『お気に召すまま』のジェイクイーズが言いそうなシニシズムというべきであって、文化も教養もこなごなになっているこんな時代であればこそ、そこにバラバラ死体ならぬ活力ある生命体の存在を希求するのは、時代に背を向けることではなくて、時代に拮抗するつまり立ち向かう姿勢である。バラバラな社会に元気をもらえないひどく生半可な存在としてのわたしは、そんな時代から辛うじて退却せず、むしろ立ち向かってそのアクチュアリティの表象を探しもとめるにはどうしたらよいのかと、日夜考えつづけている有り様なのだが、たがいに全く関係のないこの2冊の本たちは、わたしにそのような生きる光を与えてくれるという点で、共通している。

古井由吉は内向の世代といわれているが、自身の生活に密着しつつ微細な記述を展開してゆく古井の文章には、時代の深層に底流する共同体の無意識の重い存在感が絶えず染み渡っている、と松浦寿輝は書いている。「最新トピックや現代風俗を意匠としていち早く取り入れて、これこそ『今』だ、今の社会だと誇らしい手つきで示してみせる小器用な作家はぞろぞろいますが、私の眼にはむしろ逆に、あからさまに『時代と寝ている』そうした人たちの作品の方こそ『内向き』の言葉にすぎず、私たちの生の基層で沸騰している共同体の欲動の流れを取り逃がしているように見えるのです」。松浦自身の作品も、どん詰まりの、デッドな世の中という題材を取り上げて、それをアクチュアルな現場の物語として書き紡ぎながら、その物語はいつしか疎外というきわめて普遍的な深層へと落ちて行く。私たちの生の基層で沸騰している共同体の欲動の流れなるものも、その表層は刻々と変化していきながら、深層では結局さしたる変わりはないかのようでもある。そのような人間存在の深層への深い共感なくして、いかに鋭利な批評のメス捌きを競ってみても、果たして根源的な批評になっているものだろうかと、松浦は問いかけているのかも知れない。そうした深層のアクチュアリティに少しでも踏み込んで、その形相を捉えようとすることが、結局時代の悲痛な呻きに対する祈りとしての表現になるのだろう。

 現代文学研究者であるはずのわたしが、シェイクスピアの勉強をやめられないでいるのも、そのようなアクチュアリティに対する問題意識に導かれてのことだ。河合祥一郎は、シェイクスピアの作品世界に溢れるパラドックスは、いずれも人間世界の混沌たるエネルギーを指し示し、ヘルメス的カオスはシェイクスピアの渾然たる世界の生命力の根源となっている、と書き、シェイクスピアにおける、アポロン的<知>に対するヘルメス的<智>の優位を論じている。ホルバインの『大使達』のだまし絵が、視点を変えれば髑髏の絵に変貌するという読解を超えて、じつは澄まして立っている大使達も髑髏も、同時に「共存」しているのだということを、実際に実験を行って証明することではじまる蒲池のアナモルフォーズ論は、ホログラムとしての世界認識を現代に問いかける。わずかに動かすだけで、像が劇的に変貌するホログラム。暗い現実という深淵の上にかけられた薄い紗のヴェールとしての海底のイメージの美しさは、日常生活の苦しみから完全に解き放たれた完璧で不滅の美しさではなくて、ほんの少し角度を変えるだけで消え去る幻であり、その背後には恐ろしいイメージが透けて見える。しかしそれだからこそ、このはかない幻は、人生という広大な海の底に沈む人々への静かな鎮魂の祈りとなりうる。細分化された世界へのアンチテーゼとして、蒲池は現代における柔軟性と全体性の復活を説くのだが、その全体性とは、今述べたように、ホログラムのような儚いものである。しかしホログラムのように刻々像の変わる不安定な全体性であるからこそ、現代のアクチュアリティを包括的に捉える祈りとしての世界認識になり得る。そしてそういう現代性(モダニティ)とは、畢竟シェイクスピアの時代から、さほど変わっているわけではないのである。

 「芸術であれ文学であれ、ものを作るとは、ポイエーシスとは、こうした手の行う営みなのではないのか。時代の無意識と共振しつつ身の内から流出してくる恐怖を、表現しようとするのでもない。それを鎮め、それから逃れようとするのでもない。それと拮抗し、克服しようとする。そのとき、捻じり合わされた両手が、自分を何かに捧げるようにひとりでに宙に上がってゆく」これは松浦である。時代の恐怖と拮抗し、それを辛うじて越えていこうとする激しい意志。文化も教養もそのような意志の表現の習得であり、その集大成であって、それはエリザベス朝の時代から、表層は変わっても深層は同じように、脈々と続いていくものなのである。そのような文化や教養の担い手や理解者が激減しているという、苦しい現状はいかんともしがたいのだけれど。お話にもならないような微力でしかないけれども、そのような時代に拮抗する祈りとしての文化継承・創造を、こなごなな大学にあってこなごなになりそうになりながらいかに続けていけるのかということが、わたしにとっての大きな課題である。