2009年11月22日日曜日

グレアム・グリーン「庭の下」(『現実的感覚』所収)




学生の頃は翻訳で読んだきりで、特に集中して勉強したことのなかったイーヴリン・ウォー。20世紀イギリスのコメディという文脈であれば避けて通ることはできないだろうと、春休みの後半からずっと考えていたウォーのコメディ論、「自我の消尽としてのコメディと『偽の死』」を、昨日ようやく、一通り仕上げることができた。じつは、モンティ・パイソン論を書いていて、彼らの親の世代というのが妙に気になって、読み始めたのだった。途中、自我の消尽したアンチ・ヒーローの祖先として、フローベールを読みなおしたり(本当は一番好きな作家(^_^;))、ウォーの親友のナンシー・ミットフォードにはまったり、講義の準備でシェイクスピアを勉強して発表もしたり、はたまた父親が亡くなったり、スポーツクラブのプログラムをやったり、当然のごとく盛り沢山の半年ではあったけれど、その間研究の中心でわたしを苛めていたのはウォーだったので、とりあえず纏められて安心した。これで他のことができるというもの(笑)。


 畏れ多くも尊敬している小池滋先生がウォー論に、「自分の人間としての本質というか、個人としての存在のしるしとでもいうもの(one’s own identity)を放棄して、(真の意味での)自由な決断・選択から逃避することに、自由と喜びを見出すのは、多かれ少なかれ現代人のおち込んだすがたであることは、すでに多くの人々(例えばエーリッヒ・フロム)から指摘され、多くの作家(例えばグレアム・グリーンやナイジェル・デニス)が好んでとり上げた題材である。現代において、新しいピカレスク小説が特別な意味をもつのは、こうした情況からであるし、ウォーの『衰亡記』が、そうした一連の作品のもっとも早い、注目すべき例証となっていることは間違いない」、と書いている。わたしは、ウォーの主人公がそのような「現代人のおち込んだすがた」であると書かれていることについての反証を試みたのだけれど、ではグリーンの場合はどうだったのかと思い、小池氏がその例として註に引いている「庭の下」を読んでみた。おそらく肺癌である主人公のワイルディッチは、病院で検査を受けている。「病院へ行った時と軍隊にはいった時とは非常によく似ていて、どちらも同じく、一種のくつろぎと無頓着の気分になるものである。うむを言わさずベルトコンベアに乗せられたようなもの、したがってもはや何物にたいしても責任を感じなくなってしまうのだ。…ワイルディッチは、ある大きな組織が今や自分をすっぽりとつつんで保護してくれているような気持になった。戦争が終わってからこのかた、彼はこれほどの自由を味わったことは一度もなかった」。検査は終わり、病院を出るワイルディッチは、「せっかく乗ったベルトコンベアからあまりにもあっけなくほうり出され、たえず選択の伴うわずらわしい世界にふたたびもどる破目になって、…がっかりした」。これが「(真の意味での)自由な決断・選択からの逃避」であるかというと、やはり微妙である。もちろんウォーもグリーンも小説家なのであるから、フロムが喝破しているような、そこらにいる無責任な大衆とは違う。彼らがこのような無責任な素振りを見せるときには、何らかの自意識の裏付けがあるはずである。ワイルディッチは、家から逃げるように世界中を旅行しつづける人生を送っていた。そしてそれは、想像力の領域に入るものは何でも忌み嫌った母親から逃げていた、ということのようである。彼の仕事も、彼の想像力の翼をもぐような、会社や役所に事実を提供するものであり、母親の支配力だけでなく社会そのものからの圧迫にも、ワイルディッチは終生抑圧され続けてきたのだった。


 そんな彼が、余命幾許もない宣告を受けて、家に戻って子供時代の自分の幻想を物語に書き始める。彼は庭の下に住み、ジャヴィットという自由な発想を奨励しつつ奇妙にマナーにうるさかったりもする男が滔々と喋るのをずっと聞いているが、それは彼が後に聞いた何よりも勉強になる事柄だった、とワイルディッチは思っている。夢の中だから、宝物もざくざくと豊富である。「夢の中には、ガラスでつくったダイヤモンドなどはない。そう見えるなら、もはやそれそのものなのだ」。


 ワイルディッチはやがて、そこから出て行ってしまったジャヴィットの娘のマリアを探しに行くという名目で、庭の下から地上に出る。彼は、もしも自分が、トンネルやひげの老人や地中の宝などといった夢を見ないでいたら、せめてもう少し落ち着いた生活が出来たのではなかろうか、と自分の人生を回顧する。いや、しかし。「せめて彼が誇りとするのは、これまでさまざまな仕事をやってきたが、そのどれにも自分を縛りつけようとしなかったことだった」。世界中を旅行しているというのだから、確かにピカレスクであって、一所に留まる閉塞的なアイデンティティは、ワイルディッチが嫌ったものだ。しかし彼は、「真の自由」から逃避し続けたのだろうか?それはやっぱり違う。どれかの仕事や家庭生活といったものに自分を縛りつけるというのも、その人間が意識して選択しているのなら、そこにしか彼の自由はない。ワイルディッチはそうでない、彼なりの別の自由を選んだというのに過ぎない。どの仕事にも縛りつけられないようにするというのもまた、そういう強い自意識から選択したというのであれば、人生の大変な責任を負っているということになる。


 ワイルディッチは、病院のベルトコンベアのような自動的な生活に暫しの間放り込まれて、安堵の念を覚える。そのような社会を綱渡りしていく緊張を、そこで緩ませることができるからである。それは彼が社会で闘っていたことを示すので、病院に長い間縛りつけられていたら、彼はそれを良しとはしないだろう。しかしここにはまた、死ぬ間際の彼が回顧するように、自分の想像力の翼がもぎとられて一生を送ったという、歴史の抑圧が見て取れる。「庭の下」とは、そのような抑圧的な日常に対するオルタナティブな世界でありながら、それが庭の下、つまりあたかも日常性によって抑圧されている地下にあるところに、ワイルディッチが遁れても遁れても遁れられないでいる束縛的感覚が、伝わってくる。つまり彼は、そうした諦観から、軍隊や病院といった自動的な生活における規律を、むしろ歓迎しているのかも知れない。自分の想像力による選択が、社会で実現するということがないのであれば、そのような無窮動な生の方が、彼の人生の諦観のフォームを、正しくなぞっているということにもなる。正しくといっても限りなく擬似的に、という点が、重要なのだけれど。


 ある精神科医が大学に職を得て、こういう時間や事務仕事に区切られた生活が、わたしはとても好きなのだ、と言っていたのを、急に思い出す。彼女は、ワイルディッチが病院のベルトコンベアに安堵するというのと、同じことを言っているのだろう。とすると大学というのは、病院や軍隊に相似した施設ということなのだろうか。そこで想像力をのびのびと飛翔させるほどの力量は、現実の大学にはないけれども、大学はやはり、文芸は抑圧されて小さくなりながら、こそこそとではあっても、想像力の自由について論じることがまだ許されている聖域ではある。そのような聖域を破壊するような圧力は強まっているし、これを踏みつけにしようという輩はそこら中にいるけれど、程よいベルトコンベア性の中で、庭の下の世界を保存するには、とりあえずこれ以上の世界はないのかも知れない。

2009年11月6日金曜日

オリーブ・バールのアリス


大学祭は4日までだったので、5日は授業があると思い、鶴橋へ。
東京から出てきたばかりのときは近鉄線の長い電車間隔に驚愕したが、ここのところその間を利用して構内のドトールで朝食を食べるのが、授業のある日の日課になっている。コーヒーをゆっくり飲むほどの時間はないので、彩り野菜のカルツォーネだけ食べて、電車の中でテイクアウトのソイラテを啜っていると、周りがいつもより落ち着いたおじさんたちである。先生かな、と呑気に考えていると、急に、おじさんが乗っているのはともかく、学生がいない、という異常事態の意味に気づく。

も、もしかして今日って、休み?

慌ててLet's Noteを出し、大学のホームページから学年暦を検索。
11月5日 創立記念日。
うわ、そうだったのか。そう言えば、例年、学祭のときって、1週間以上くらい休みのはずなのに、、
と思ってはいたのだった。
しかし、今日は2時から元町のCHESTに髪を切りに行く予約を入れたので、家には帰れない。
どうしよう、と思いながら、とりあえず駅で降りて歩いていると、美容院の予約の時間を
早めてもらう、という案が浮かび、神戸方向へ引き返した。予約は1時になった。
変更の電話を入れてから、そうだ、映画館に行けばよかったのだ、こういうアクシデントが
あったときにふらっと入ると、結構いい映画をやっていて得をするのに、と後悔したが、すでに遅し。
1時間半強の時間を、どこかで潰さなければならなくなった。
とりあえず元町で降り、ランチすることにして、ウロウロ。
有元葉子プロデュースの、オリーブ・バールというレストランがあったので、入ってみることにした。
料理研究家の有元さんは結構ファンで、本も何冊か持っている。ラ・バーゼの調理器具も使っている
から、レストランでも「あ、これ持ってる」、というのが、使われていたり売られていたり。

オーダーしたのは、1日20限定のフォーシーズンランチ、秋バージョン。
メニューは、


バニラ風味の南瓜プリンと秋野菜のマリネ
コンソメジュレ添え
ほんのり唐辛子を効かせた自家製タリアッテレ
じっくり炒めた飴色玉葱ソース
栗のペーストを詰めた淡路地鶏のロースト
白トリュフ風味
秋野菜のジェラート
バゲット 紅茶

イギリスの有名シェフに、料理でいちばんおいしいのは前菜だから、前菜だけのレストランを開いた、という人がいたけれど、わたしも同じ意見で、今回もそうだった。
南瓜のプリン+野菜のマリネ+コンソメジュレという組み合わせは絶妙。おいし~♪
(前菜の写真は撮り忘れたので、写真はメインの地鶏のロースト。上方にあるのはお店のサイトより、コース全部の写真)

待っている間読んでいたのは、柳瀬尚紀訳の『不思議のアリス』。
今更なのだが、また読み返す必要を感じたのだ。
この本、徹頭徹尾、幸せになるために書かれている。
トランプの国の女王様は、二言目には「処刑せい!」と言う。
それなのに「おかしいやな!」と笑っているグリフォンは、
「ぜんぶ空想しているだけなんだ、誰も処刑されたりはしないのさ」
とアリスに言う。それから胸が張り裂けんばかりに溜息をついている
海亀フーを見てまた、グリフォンはアリスに繰り返す。
「ぜんぶ空想しているだけなんだ。なにも悲しいことなんかありはしないよ」

朝は『荘子』の斉物論編を拾い読みしていたのだが、それとも通じる世界が
ここにある。「…みせかけの対立を、天倪によって和合させ、自由無碍の境地
のうちに包含することこそ、真に永遠に生きる道なのである。
こうして、歳月を忘れ、是非の対立を忘れ、無限の世界に自在にふるまうことが
できる。これゆえにこそ、いっさいを限界のない世界――対立のない境地におくのである」。
ドードーの説明するコーカス競争は、直線ではなく円の競走路で行われる。
全員は、同じ位置ではなく、コースのあっちこっちにスタンバイする。
「よーい、どん!」の合図はなくて、みなが好きなときに走り出し、好きなときに
やめる。もちろん誰が一等なのかはわからないから、みんなが一等だ。
議論の対立というのは、結局気まぐれな主観から生じたものである。
何が是で何が非だという区別がないのであれば、誰が一等だということもない。
人生の苦難も、結局変わった夢を見ていたに過ぎないということになる。

しかし、同じ夢を見るのなら、ほんわかと愉しい夢をみて、happyになりたいもの。
外食ついでに夕食は近所のバリレストランにふらふらと入ってしまい、ヒアルロン酸
ジェリーのかかった海鮮サラダを食べた。何だかジェリーづいている。
クラゲと茸の付き出しも、なかなかおいしい。
ゆっくりお風呂に浸かりながら、アリスを読み終えた。