2009年12月25日金曜日
Merry Christmas 2009★新丸ビル「たる善」
2009年12月20日日曜日
ロメオ・カステルッチの神曲・煉獄篇と天国篇
そうこうしているうちに中に入ると、黒塗りのボックスになっている空間の中心部分が、白く塗ってある。一瞬ぽかんとしていると、奥の方に置いてある1m立方くらいのライトの方から人がぞろぞろ出てくるので、あ、ここに入るのか、と解る。ライトは天国への導きの光だったのである。「天国」の中は、やはり黒塗りで、前方では水がびしゃびしゃと流れ落ちている。恐る恐るどんどん歩いて行ったら、効果だけではなく本当に水に濡れるので、それより前に進むことはできない。じめじめした黒塗りの空間なのに、神社仏閣にいるような感覚に襲われる。水の流れ滴る上方では、骨ばった裸体が、地獄で蜘蛛の糸を探ってでもいるような、喘ぎ苦しむようなパフォーマンスを、ひたすらに続けている。一代で会社を立ち上げて成長させたある身近なやり手の経営者が、上へ上へと登りつづけて、登った先には何もなかった、と言っていたのだが、それもこういうイメージなんだろう。地獄を経めぐり、煉獄で浄罪される、その旅の過程こそが重要なのであって、着いてしまったと思ったときにそこに開けている世界は、空虚である。ユートピアが、どこにもない場所である所以だ。フーコーは、アトピアという言葉を使っている。それでまた、ドゥルーズと伊丹十三が2人とも自宅のアパルトマン/マンションから投身自殺したイメージが、このパフォーマーに重なって視えた。あの2人はダンテ同様、しかしおそらくダンテのように究極の目的地を信じないまま、地獄と煉獄の旅に出たのではなかろうかと。
煉獄篇では、恒常的に自分に暴力を振われながら、その父の罪を赦す息子が成長して、煉獄をのたうちまわる姿に、観ている者も同化して、浄罪のイメジャリーの世界をともに経巡っているような感覚になる。観客もこうして、天国篇へ準備の階段を上っていくのである。三軒茶屋から西巣鴨に場所を変えて、天国に入ってみる。しばらく茫然とそこに立ち尽くした後、我に返って外に出ると、ここのところ家族にも友人にもその薄さと暖かさを絶賛していたヒートテックを着ているのに、急に怖気がしてきて、外気がいやに冷たい。『神曲』を視覚化した芸術家はたくさんいるけれど、彼らの描くイメージは、結局地獄篇が一番選れていることが多い。カステルッチ版も、おそらくそうだろう。天国篇の空間を出たわたしは、あの3匹の犬がカステルッチを襲い、ウォーホルの作品名とともに人々が磔刑の姿で落ちてゆく、地獄篇のイメジャリーの中に、帰りたくなった。
2009年12月16日水曜日
映画『ドレッサー』(1983)
喜劇の題名は一般的名前であり、悲劇の題名は特定の個人の名前であると言ったのは、ベルクソンである。喜劇の題名は例えば『人間嫌い』であり、決して『ハムレット』や『リア王』や『マクベス』にはなり得ない。それは悲劇の主人公が強烈な個性であるのに対し、喜劇の主人公は類型だからである。
それでは『ドレッサー』は、どちらになるのだろう。これはアルバート・フィニー演ずるシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優が、『リア王』の公演をする前後の物語だ。彼は「サー(Sir)」としか呼ばれず、固有名がない。サーは日本でいえば勝新太郎か三船敏郎かという「個性」であるけれども、それはシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優だったらとりあえずこういう性格だろう、という「類型」でもあるからだ。戦時下のイギリス。劇場は次々に爆破され、若い役者はみな徴兵に取られてしまい、舞台化粧に使うコーンスターチの確保も儘ならない。厳しい戦時下であれば人間の魂にとってますます必要でありながら、当然のごとく芸術は抑圧されている戦時下の時代状況が、時代の推移を体現している上2人の娘の裏切りにあって没落してゆくリア王の状況と、重ね合わされている。映画の前半で舞台を席巻しているのは、こうした状況で錯乱状態にある、老齢のサーであると言っていい。
サーのドレッサー(衣装係)であり、楽屋でサーを風呂に入れ、下着を洗濯し、錯乱して台詞を混同するサーにどの芝居か思い出させてやり、と何から何まで細々と面倒を見ているおカマ言葉のノーマン(トム・コートニイ)は、さしずめリア王の道化である。そういえばリア王の道化は、「道化」であって名前がない。舞台の原作を書き、映画化に際しても自ら脚本を担当したロナルド・ハーウッドが、サーをサーとしか呼んでいないのは、このことを現代に反転させた、達意の仕掛けのように思える。あくまでも主役はドレッサーなのだが、ドレッサーにドレッサーというアイデンティティが生じるのは、あくまでもサーがいるからだ。サーがいなければ、ドレッサーという主体が存在できないのは、リア王と道化の関係と同じである。芝居の最初では舞台に出ることすら危ぶまれたサーは、無事に一世一代の名演をし、若い女優をコーデリアに見立てて両腕で抱きかかえた後、呆気なく息を引き取る。最期は思いのほか静かだった。サーが亡くなると、確かに(映画の)舞台は、急にひっそりしてしまう。最期に遺言のように、観客はさることながら、小道具係、照明係にまで感謝の意を表したサーは、ドレッサーには一言の挨拶もなかった。ノーマンはそのことに憤慨しつつ、これから自分がどうして生きていけばいいのか途方に暮れる。芝居=映画はこうして、何だか尻すぼみに終わる。
『ドレッサー』はあたかも、サーという中心を喪ってもまだ生き続けなければならないノーマンの、日常性の悲劇がこれから始まるというところで、終わっているかのようである。悲劇では主人公が死ぬところが最大のクライマックスであるのだが、この劇=映画ではそこからエンドレスなアンチ・クライマックスが始まるのだ。ヤン・コットが『リア王』をベケットの『勝負の終わり』に準えられたのは有名な話だが、『ドレッサー』はそのような現代における悲/喜劇の性質を、絶妙に捉えている。「ドレッサー」という題名の意味は、そこにある。
ちなみに、アメリカのアマゾンでUS版のDVDを買ったら、日本語字幕がついていました(・。・)
2009年12月15日火曜日
2009年12月14日月曜日
ロメオ・カステルッチの『神曲・地獄篇』
通訳を通しているという物理的状況も、もちろん関係しているが、このトーク、まったく対談になっていない。あたかもお互いに向かい合うことなく、その間が、カステルッチ氏の舞台という鏡に仕切られている、というような構造で、2人は喋り続けていた。飴谷氏が、カステルッチ氏の舞台という鏡に反射された自分の話をして、その鏡の裏にいるカステルッチ氏は飴谷氏の言葉を聞き、またぼつぼつと自分の話をする、という感じ。