2009年12月25日金曜日

Merry Christmas 2009★新丸ビル「たる善」



東京駅付近のクリスマス・イルミネーション。
ニューヨークの街並みを再現しようとしたのだという。
かなり年上の、某大企業参与の従兄は、
この街並みを現場で作っていたらしい。
その従兄が、先週の土曜日、小樽寿司通りで
いちばん美味しい鮨屋という評判(従兄いわく)の
「すし善」からのれん分けした、
新丸ビルの「たる善」に連れて行ってくれた。




右の写真は最初に出た、肝につけて食べるかわはぎ。
灰色のはダメなので、ピンク色の肝でないとおいしくないんだとか。
最初のだけは写真を撮ったけど、後は喋るのと食べるのとに夢中で、写真なんか撮っていられず(^_^;)
5年物という巨大な帆立が出てくると、従兄は塩を出してと言う。あ、そうだった、と言いながら、板さんが藻塩を出してくれる。
天ぷらも絶対つゆじゃなくて塩で食べるんだ、と従兄は言い、わたしも頷く。
ちょっと炙ったのがミソ、というキンキも、藻塩をつけて。
いつもはたれで食べている穴子なんかも、塩味がおいしい。
焼いた頭のみそが絶品のぼたん海老は、定番だ。
次から次へと、板さんの今日のおすすめをごちそうになる。

川魚の王、鮭の大助は、毎年決まった日に、妻の小助と一緒に海から川へ遡る。そのとき「鮭の大助、小助、今のぼる」と声をかけるのだそうだ。それを聞いた人間は、3日後に死ぬという。

従兄は今年いっぱいで長年務めた会社を退職するというので、母とわたしを招待してくれた。
話していると、ポジティブで気持ちのいいオーラが、びんびん伝わってきて、
本当にこういう人だからうまくいったのだなあ、と実感した。
自分の言い分は、しっかり通すんだ。そうでなければもっと出世したかも知れないがね、と彼は笑うのだけれど。
enjoy good food and good companyという言葉があるが、まさにそれ。
シャブリを片手に、楽しい話が弾んで尽きない。
彼の放つ「気」も、わたしの精神にはごちそうで、本当に有難かった。

イギリス人はquality timeと言う、こういう時間を脳の中に累積し、そして追憶していくこと。
文学と芸術とおいしい食事、そしてそれらをめぐる時間に交錯する人々。
それがなくては人生を営むに値しないものたちのために、そしてその愉しみをもっと多くの人たちと共有するために。
そのための仕事をすることができるのならば、わたしの人生は本望なのだろう。

2009年12月20日日曜日

ロメオ・カステルッチの神曲・煉獄篇と天国篇

 にしすがも創造舎に着いたら、そこは廃校になった校舎だった。ロメオ・カステルッチの神曲・天国篇のライブ・インスタレーションの会場だ。一度に5人程しか入れないため、当日券狙いだった友人は入れず、わたしもしばらく待たされて、道路の向こうにあるカフェで、きのこのキッシュを食べながら時間を潰す。キッシュというのは生クリームと卵の生地をタルト・ケースの中で焼いて作るのだが、ここのキッシュは中身がホワイトソースで、グラタンみたいになっていて驚いた。抹茶のマフィンを頼んだ友人が、「大変なものを頼んじゃったわ!」と大騒ぎをするので覗いてみると、マフィンの中に何と「あんこ」が入っている。キッシュを開けてみたらグラタンというのも凄いが、確かにあんこの入ったマフィンというのも、始めてである。カフェ・ブームのときによくあった、オーナーの趣味に彩られた、アマチュア・チックな内装の店だ。お姉さんが毎日その日の気分で、即興でちょっと変わった食べ物を作って出しているらしい。ケーキの中にコインが入っていると何か罰ゲームをしなければならない、というのがあるけれど、確かに今日はどんな爆弾が仕込んであるんだろう、と思いながらここの食べ物を開けてみる、というのは、なかなかスリリングかも知れない。

415分の整理券というのをもらって、時間通りに行ったのだが、結局5時くらいにならないと、展示に入れなかった。1人出ると1人入れるというシステムになっているので、当事者側の計算よりも長い間、入った人はそこに留まっていたかったのだ、ということになる。待っている間、わたしの後ろに並んでいた女の人と、何となく話を始めると、何と彼女は地獄篇に出ていたのだと言う。Hey Girl!を観てカステルッチのファンになり、観るだけではなくどうしてもあっち側に行かなければと思って、エキストラに出させてもらったらしい。ちなみにこの芝居(というかイメージ・パフォーマンス)には、カステルッチ本人とウォーホル以外にキャラクターはいないので、エキストラというのは端役という意味ではない。カステルッチは日本が好きで、だから日本公演を最後に持ってきたのだと、彼女が教えてくれる。日本人はちゃんと規則を守って、間をきっちりと取り、その通りに演技をするからなのだそうだ。ヨーロッパのエキストラたちは、髪の毛がひっぱられると本番中なのに「イタ!(Ouch!)」と言ったり、適当に立ち位置をアドリブしてみたりと、勝手に行動するので、イメージ通りになかなかいかないのだという。ウォーホル的な匿名の個人たちを表現するのに、顔の見えない人種として国際的に有名な、日本人がもっとも適切であるというのは、頷ける話である。今日の公演は舞台劇なのだと思っていたけれど、結局台詞はあんまりなくて、最後の方のイメージの方がやっぱり強烈でしたよね、とわたしが言うと、彼女はカステルッチの「音」を絶賛していた。京都芸術劇場の、『ガリバー&スウィフト―作家ジョナサン・スウィフトの猫・料理法―』というのにも今度出ます、と彼女が言うので、名刺を頂き、チケットを頼むことに。


そうこうしているうちに中に入ると、黒塗りのボックスになっている空間の中心部分が、白く塗ってある。一瞬ぽかんとしていると、奥の方に置いてある1m立方くらいのライトの方から人がぞろぞろ出てくるので、あ、ここに入るのか、と解る。ライトは天国への導きの光だったのである。「天国」の中は、やはり黒塗りで、前方では水がびしゃびしゃと流れ落ちている。恐る恐るどんどん歩いて行ったら、効果だけではなく本当に水に濡れるので、それより前に進むことはできない。じめじめした黒塗りの空間なのに、神社仏閣にいるような感覚に襲われる。水の流れ滴る上方では、骨ばった裸体が、地獄で蜘蛛の糸を探ってでもいるような、喘ぎ苦しむようなパフォーマンスを、ひたすらに続けている。一代で会社を立ち上げて成長させたある身近なやり手の経営者が、上へ上へと登りつづけて、登った先には何もなかった、と言っていたのだが、それもこういうイメージなんだろう。地獄を経めぐり、煉獄で浄罪される、その旅の過程こそが重要なのであって、着いてしまったと思ったときにそこに開けている世界は、空虚である。ユートピアが、どこにもない場所である所以だ。フーコーは、アトピアという言葉を使っている。それでまた、ドゥルーズと伊丹十三が2人とも自宅のアパルトマン/マンションから投身自殺したイメージが、このパフォーマーに重なって視えた。あの2人はダンテ同様、しかしおそらくダンテのように究極の目的地を信じないまま、地獄と煉獄の旅に出たのではなかろうかと。

煉獄篇では、恒常的に自分に暴力を振われながら、その父の罪を赦す息子が成長して、煉獄をのたうちまわる姿に、観ている者も同化して、浄罪のイメジャリーの世界をともに経巡っているような感覚になる。観客もこうして、天国篇へ準備の階段を上っていくのである。三軒茶屋から西巣鴨に場所を変えて、天国に入ってみる。しばらく茫然とそこに立ち尽くした後、我に返って外に出ると、ここのところ家族にも友人にもその薄さと暖かさを絶賛していたヒートテックを着ているのに、急に怖気がしてきて、外気がいやに冷たい。『神曲』を視覚化した芸術家はたくさんいるけれど、彼らの描くイメージは、結局地獄篇が一番選れていることが多い。カステルッチ版も、おそらくそうだろう。天国篇の空間を出たわたしは、あの3匹の犬がカステルッチを襲い、ウォーホルの作品名とともに人々が磔刑の姿で落ちてゆく、地獄篇のイメジャリーの中に、帰りたくなった。

2009年12月16日水曜日

映画『ドレッサー』(1983)


 喜劇の題名は一般的名前であり、悲劇の題名は特定の個人の名前であると言ったのは、ベルクソンである。喜劇の題名は例えば『人間嫌い』であり、決して『ハムレット』や『リア王』や『マクベス』にはなり得ない。それは悲劇の主人公が強烈な個性であるのに対し、喜劇の主人公は類型だからである。

 それでは『ドレッサー』は、どちらになるのだろう。これはアルバート・フィニー演ずるシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優が、『リア王』の公演をする前後の物語だ。彼は「サー(Sir)」としか呼ばれず、固有名がない。サーは日本でいえば勝新太郎か三船敏郎かという「個性」であるけれども、それはシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優だったらとりあえずこういう性格だろう、という「類型」でもあるからだ。戦時下のイギリス。劇場は次々に爆破され、若い役者はみな徴兵に取られてしまい、舞台化粧に使うコーンスターチの確保も儘ならない。厳しい戦時下であれば人間の魂にとってますます必要でありながら、当然のごとく芸術は抑圧されている戦時下の時代状況が、時代の推移を体現している上2人の娘の裏切りにあって没落してゆくリア王の状況と、重ね合わされている。映画の前半で舞台を席巻しているのは、こうした状況で錯乱状態にある、老齢のサーであると言っていい。

 サーのドレッサー(衣装係)であり、楽屋でサーを風呂に入れ、下着を洗濯し、錯乱して台詞を混同するサーにどの芝居か思い出させてやり、と何から何まで細々と面倒を見ているおカマ言葉のノーマン(トム・コートニイ)は、さしずめリア王の道化である。そういえばリア王の道化は、「道化」であって名前がない。舞台の原作を書き、映画化に際しても自ら脚本を担当したロナルド・ハーウッドが、サーをサーとしか呼んでいないのは、このことを現代に反転させた、達意の仕掛けのように思える。あくまでも主役はドレッサーなのだが、ドレッサーにドレッサーというアイデンティティが生じるのは、あくまでもサーがいるからだ。サーがいなければ、ドレッサーという主体が存在できないのは、リア王と道化の関係と同じである。芝居の最初では舞台に出ることすら危ぶまれたサーは、無事に一世一代の名演をし、若い女優をコーデリアに見立てて両腕で抱きかかえた後、呆気なく息を引き取る。最期は思いのほか静かだった。サーが亡くなると、確かに(映画の)舞台は、急にひっそりしてしまう。最期に遺言のように、観客はさることながら、小道具係、照明係にまで感謝の意を表したサーは、ドレッサーには一言の挨拶もなかった。ノーマンはそのことに憤慨しつつ、これから自分がどうして生きていけばいいのか途方に暮れる。芝居=映画はこうして、何だか尻すぼみに終わる。

 『ドレッサー』はあたかも、サーという中心を喪ってもまだ生き続けなければならないノーマンの、日常性の悲劇がこれから始まるというところで、終わっているかのようである。悲劇では主人公が死ぬところが最大のクライマックスであるのだが、この劇=映画ではそこからエンドレスなアンチ・クライマックスが始まるのだ。ヤン・コットが『リア王』をベケットの『勝負の終わり』に準えられたのは有名な話だが、『ドレッサー』はそのような現代における悲/喜劇の性質を、絶妙に捉えている。「ドレッサー」という題名の意味は、そこにある。

ちなみに、アメリカのアマゾンでUS版のDVDを買ったら、日本語字幕がついていました(・。・)

2009年12月15日火曜日

アバクロとトマトのパルフェ♪

新橋で降りて、銀座方面にふらふら歩いていたら、日本に出店していなかったことで有名なアバクロがあって、驚く。
アジア1号店なんだそう。
NYに行くとつい寄ってしまうアバクロだが、これからは銀座で買えるのね(・。・)

今日の11時にオープンだそうで、わたしが行った土曜には、
「ストア・モデル」のお兄さんたちが店の前に並んで、
人間ディスプレイをやっていた。
なかなか壮観。















ランチは銀座kanseiで。
前菜のトマトのパルフェ♪
トマトのソルベにキャビアがよく合って、美味しいです(^。^)







メインは黒毛和牛のローストビーフ。
柔らかい~♪














お芝居の後は、タイレストランMEKONGへ。
どれがおいしいですか?と聞くと、タイ人のお姉さんが全部答えてくれて、ほぼその通りに注文。
















いちばんおいしかったのは、渡り蟹と卵のカレーソースでした(*^_^*)






2009年12月14日月曜日

ロメオ・カステルッチの『神曲・地獄篇』


 ウォーを集中的に読んでいて、「結局、これって『神曲』なんじゃないの?」と思っていたら、偶々ロメオ・カステルッチの3部作舞台が東京にやってくるというので、観に行くことに。この週末は、「地獄篇」のヴィジュアル・シアター。ポスト・パフォーマンス・トークがあるというので、土曜日の夜のチケットを買っておいたのだが、ちょっとした事情で遅れてしまい、日曜にももう一度観た。舞台はもちろんだけれど、カステルッチと飴屋法水との、このトークがまた凄い。

 通訳を通しているという物理的状況も、もちろん関係しているが、このトーク、まったく対談になっていない。あたかもお互いに向かい合うことなく、その間が、カステルッチ氏の舞台という鏡に仕切られている、というような構造で、2人は喋り続けていた。飴谷氏が、カステルッチ氏の舞台という鏡に反射された自分の話をして、その鏡の裏にいるカステルッチ氏は飴谷氏の言葉を聞き、またぼつぼつと自分の話をする、という感じ。
 
 最初から、2人の現実と虚構との捉え方が、微妙に違っているのだが、もちろん彼らはそれについて弁証法的な議論をする気などさらさらなくて、お互いが自分の意見を、並行して言っている。2人の違いは簡単に言えば、カステルッチ氏が虚構というものを現実のつっかえ棒のように恃んでいるのに対し、飴谷氏はその違いはない、と主張しているところだ。観客と舞台上の人との違いが分らない、虚構と現実との区別も分らない。というのも虚構じゃない現実はないからで、みんなが視ている以上現実でない虚構はないし、存在そのものが虚構であるような現実しか生きられない、というのが飴谷氏の立場。カステルッチ氏は、演劇は虚構であり、現実を超えるマジックを持っている。芸術を観ているときは丸裸のような感覚である。虚構であるけれども真実を明らかにする、「剥ぐ」。演劇は言葉では表現できないものを表現する。肉体と時間の経過の感覚が、実生活に一番近いアートであり、第2の人生のようなものだ。飴谷氏にとって舞台は、現実のヴァリエーションに過ぎない。カステルッチ氏が、現実からの救援所としての演劇というものを信じていて、その救けによって現実を忍従するというキリスト教的な世界観を持っているとすれば、飴谷氏は、万事境界が曖昧な日本人的に、そういう価値判断そのものを、根源的かつ楽天的に宙吊りにしている、ということのようである。 ベケットは、「ダンテの浄界は円錐形をなし、したがって最高地点を内包する。ジョイス氏の浄罪は球形をなし、最高地点を含まない。前者には、ほんものの徒食(浄罪界前域)から理想的徒食(地上の楽園)への上昇があり、後者は上昇もなく理想的徒食もない」、と書いているが、飴谷氏の感性は、もしかすると、ダンテというよりはジョイスに近いところがあるのかも知れない。
 
 彼らは2人とも、動物好きである。飴谷氏は以前、梟と一緒に住んでいた。梟は人間に似ている。門禽類(実際の分類は違うようだが、彼はそう言っていた)の中で身体能力が低い。鷹とか鷲とかに比べて。だから用心深くなる。カラスなどと比べたらダメだが、でも頭はいい。身体能力以外のところを発達させて生き延びているところと、眼が前に向いているところが、人間に似ている。自分は女性のパートナーと同居しているが、子供はいらないと思っていたので、梟と一緒に住んでいた。山で放し飼いのようにして飼っていたが、ある時野生の門禽類に食べられてしまって、失敗した。今は子供がいる。他方、農業学校で農業を学んでいたカステルッチ氏は、農業をやっていても動物と一緒にいられる訳ではないと分って道を変えた、動物は人生にとって不可欠なものであり、動物のいない人生なんて考えられない、と言う。ここでも飴谷氏は、淡々と動物との共生について語っているだけなのに対し、カステルッチ氏は、イタリア語で動物はアニマーレというが、それはアニマ(魂)を持っているものという意味である、人物に足りない生命を担っている、三匹の犬は私の魂を担っていると言う。人間ではない部分が本質である、と言い、動物の魂に救済の可能性を求めているかのようである。動物にベアトリーチェをみているということなのだろうが、アニマを持った3匹の犬というのは、ちょっと多神教的な感じもする。

 このように、ダンテ譲りに本質とか、救済とかいったものを信じており、演劇をそのための媒体と捉えているカステルッチ氏は、ダンテにおけるヴェルギリウス、つまり水先案内人として、アンディ・ウォーホルを登場させる。東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワにはまだ美しいものがない、と言ったウォーホル。マクドナルドは、退屈で取るに足らない人間の反復としての社会という地獄を、端的に象徴している存在だ。グローバライゼーションという名のアメリカナイゼーションは、今や北京とモスクワにすら、その美しいマクドナルドを繁栄させている。ウォーホルの作品の名前を一つ一つ字幕に照らしながら、取り換え可能なエキストラたち、匿名の人間たちが、同じ磔刑の格好で、次々と舞台の向こう側へと堕ちていったのは、その退屈さゆえに、現実の地獄篇を射抜く、じつに鮮烈なイメージだった。カステルッチ氏の舞台だから当然とはいえ、確かに彼の言っていたことの方が、ここでは当てはまっているかも知れない。ウォーホルのイメージは、演劇的表現を与えられた現実であり、現実の本質的な様相を浮き彫りにしている。舞台がまず、観客を映し出す、前面が鏡である立方体の提示に始まり、途中ウォーホルが何度も観客にカメラを向けていたことに示されているように、それは現実の鏡である。しかし、現実を照射するその眩さによって、それは劇場をまた足を向けたい空間にする。闇の中では、黒と発光している白は同じである。ダンテ自身も、完全な黒と完全な白は入れ替わると言っている。神の光を目にした人間は暗闇に陥るし、完全な闇に対すると内にある光を求めるようになる。天国と地獄は、反転現象だ。地獄を表象した演劇空間は、まさにそういうものとして、天国だった。

 演劇について考えることは、現実を生きていく救けになる、とカステルッチ氏は言ったが、こんな風に語られた現実を視た後でそうである現実に戻らなければならないのは、それにしてもますますツラいことである。