2010年3月28日日曜日

秩序ある混沌~千住博・大江健三郎・ニーチェ

もう先週のことになるが、京都造形芸術大学の卒業式に行く機会があった。祇園の料理屋で、湯葉づくし懐石をご馳走して頂いたのも有難かったが、思わぬ収穫だったのは、理事長以下の卒業式辞が聞けたことだ。さすがに芸大だけあって、大学の運営サイドの人たちもみな芸術家であるところが、かなりウラヤましい。学内にある春秋座には2か月前、スウィフトの芝居を観に来たのだが、その時は風邪気味だったせいもあり、大学のカフェでハーブティーが飲めたのがうれしかった。芸術大学はさすがにちょっと違うのかな、などと思ったものだ。さすがといえば、卒業式というよりは仮面舞踏会のような出で立ちの学生も、多かった。舞台専攻の代表の学生は、全身ブッシュマンのようなボディメイクをして、舞台に上がっても引き攣りの演技を暫く続けている。文明社会の中に放り込まれて、突如芽生えた自意識なるものが身体を急襲した、というシナリオだったのだろうか。ソバージュ(野生)なるコクーン(とまで言うのは大学を褒め過ぎだ)から、これから社会に出ていかなくてはならない境界に立って、止まぬ戦慄の身震いを表現している、ということなのだろうか。

 着物に袴姿で楚々と証書を受け取りに行く代りに、同級生4人を巻き込んでパフォーマンスをした学生も別にいたし、他にも奇抜な格好の学生は多くいた中、ブッシュマンの彼の話につい入り込んでしまったのは、さすが学科の代表(つまり最優秀学生)である彼の引き攣りパフォーマンスが、「思わず目を止める」ものだったからだろう。これは取りもなおさず、学長で国際的に活躍しておられる日本画家(?)である千住博氏の話の、主題であった。卒業制作展を見て、今年は例年に比べハチャメチャな作品があまりなかった、という話から入った千住氏は、「思わず目を止める」作品はどのようにして作るのか、その秘訣をお教えする、それは「秩序ある混沌」である、といきなり断言したのである。
 
 この話(というよりその話をする千住氏)は、わたしに「現場」的な軽い興奮をもたらした。それは渡邉ひとみによってインタビューされる大江健三郎のアップが、テレビ画面に映ったときに覚えた興奮を、想い出させた。その大江氏は書斎に恩師渡辺一夫氏の写真を飾っていたが、それはカメラ越しにもすごい迫力だったから、外国文学者といえどもそこまで極めれば、やはり現場的オーラを放つのだろう。僕は仏文に行くと決めたのだから英語は自分で勉強してやろうと思って、学生時代自分で英詩なんかを一生懸命読んだ、今も120ページなら20ページと決めて、翻訳と付き合わせながら原書を読む、それから自分の作品を書く、と言うのを聞いて、イギリスを専攻してしまったからといって、大好きなフランス語の本を読んでいけないという法はないのだ、などと勝手な得心をしたりしたのであったが、そうした言葉の意味内容には取り立てて驚異的なものはない――大江健三郎が原書を読んでいることは、改めて聞くまでもなく誰でもが知っている――にもかかわらず、そう淡々と語る大江のアップを実際に見るという経験は、少なからぬ戦慄をわたしに与えた。その余波は未だにつづいているようだ。話がずぶずぶと大江健三郎の方に行ってしまったが(それはやはり、当然のことながら、大江がただ普通に話しているだけで「思わず目を止める」存在であるからだが)、とにかくこれらの人々は、作品はもちろんのこと、話しぶりから既に「秩序ある混沌」の結晶のようだった。内部に抱えこんだ、常人には及びもつかない奥深い混沌こそが、超一流の作品のエネルギーであるのだが、それを秩序ある芸術形式に表象してはじめて、人の心を掴む作品が成立する。彼らのまさに静かで端正な話しぶり(秩序)には、それを現場で積み重ねてきた気迫のようなもの(混沌)が、充ちていたのだ。

千住氏はもうひとつ、3割打者というのはすごい打者である、しかし7つの駄目な芸術作品を作ってしまったら、芸術家は嫌になってしまう。それでも作品を続けて出すことが大切だ、生き残った芸術家はみなそれをしている、とも言っていた。そして最後に、これから君たちを僕は呼んで一緒に仕事をするかも知れない、君たちが僕を呼んでくれるかも知れない、と言ったのだったが、彼を呼んだり呼ばれたりする筋合いでは全くないにもかかわらず(笑)、その言葉(を発する千住氏)にもわたしは、マイってしまった。

偶々そのときわたしは、講義の予習で、ニーチェの『悲劇の誕生』を、学生時代以来久々に再読している最中であった。「明朗なギリシア人」というトポスに対して違和感を覚えた、当時はまだ若き学者であったニーチェは、戦争の最中山に籠って、『悲劇の誕生』を書きあげた。改めて書くまでもないがそこには、コーラスにおいて表象されている、ディオニュソス的混沌と陶酔が、アポロ的秩序を示す対話と交互になって構成されていることが、ギリシア悲劇の栄光であって、ソクラテスとエウリピデスが理性の哲学・演劇を始めたときそれは終焉を見たのだ、と書いてある。

千住氏の次は浅田彰氏が、depressionは飛躍への足掛かりだ、『アポロ13』という映画を見なさい、と話された。映画が「アポロ」だけあって、ディオニュソス的なところがなぜかあまり感じられない、きわめて上手で端正な良いお話であった。そしてその次の東北造形芸大学長の日本画家の先生は、「僕には感動するということができたのです!!」と、今度はディオニュソス丸出し(?)の熱いトーク。しかし何といっても極めつけは、その次に登場した理事長である。教壇がそこにあることなど眼中にもなく、舞台の真中に仁王立ちになり、マイクを右手にぶら下げたまま、京都文芸復興の理念に基づき大学を始めた話を絶叫された。「私は、ちょっと、興奮しています!!」。そうですね、ちょっと。

 さすが大学を造ろうと思うような人は、突き抜けている。