2013年6月17日月曜日

チャップリンの『ライムライト』




最初から最後まで、緊張の持続である。ヒッチコックもそうなのだが、ダラダラした場面がまったくない。途中、これって『スタア誕生』だったのね、と思ったが、スタア誕生は確か、スタアが主役であるのに対し、『ライムライト』はあくまでも、カルヴェロが主役である。バレリーナのヒロインが、劇場は嫌いだって言っていたじゃない、田舎へ行きましょう、あなたの面倒を見るわ、と言うのに対し、カルヴェロは、私は血も嫌いだが、それは私の血管の中を流れている、という名言を吐く。そして記念公演の大成功の後、これからずっとこうなのだ、2人で世界ツアーだ、と息巻いて、劇場で死ぬのであった。

『巴里の女性』のヒロインと「犬の生活」の浮浪者は田舎に戻り、『サーカス』や『モダンタイムス』のトランプは、一本道を歩いていく(『サーカス』では一人で、『モダンタイムス』では二人で)。劇場で死ぬ、というエンディングは、ついに行き着くべくして行き着いた、というところ。もっともそれまでは、「死」がお話の中に入り込む余地もなかったわけだ。

しかし、考えてみれば、Show must go on.で終わるエンディングも、今まではなかったのである。一本道を歩いていく先にあるのは、とりあえずはショーではない。結局はショーに行き着くしかない、ということを、『ライムライト』では確認した、というべきだろうか。それもそうだろうが、もうショーに立てる年齢ではなくなって、ショーにノスタルジアを覚えている、という方が正しいだろう。しかしやっぱり立てない。というわけでできたのが、『ライムライト』だ。

それにしても、チャップリンのトーキーへの抵抗は、正しかった。『ライムライト』で披露されている歌詞つきの歌よりも、『モダンタイムス』のナンセンス歌詞の歌の方が、はるかに生き生きしている。少なくともチャップリンは、喋りなしのマイムの方が、ずっと面白いのである。ミュージックホールの芸を、音なしで再現したところに、革新的な芸術が成立したのだ。

チャップリンが喋ると、チャップリン本人の地がすぐに出て、彼の哲学的演説になってしまう。演説の中身は、正論である。彼がそれを真実であると言って、真実を追求したい、と言うのも正しい。しかしそうすると、芸術作品がプロパガンダみたいになってしまう。芸術として正しい範囲に、収まってはいるが。それに、彼の言っていることは、特定のイズムに奉仕することのない、より漠然としたヒューマニズムみたいなことだから、プロパガンダというのも、少し違う。


たぶん、チャップリンが進んでいった芸術の方向は、19世紀の最高の小説がもたらすような、文学的な効果なのではないかと思う。トーキーの到来とともに喋らざるをえなくなった彼は、それを、映像そのものばかりでなく、言葉で伝えずにはいられなかった。逆説めくが、つまり小説的、文学的なのだ。

グルーチョならば、あのマシンガントークがあった方が、マイムだけより面白いのだけれど、チャップリンは、芸としてのマシンガン・トークをしない。そう、『ライムライト』でヒロインのテリー(クレア・ブルーム)と、作曲家のネヴィルは、お互い自分たちは内気だから、と言っていた。「内気な」チャーリーには、『黄金狂時代』で喋るの得意じゃないから代わりに、と言って披露したロールパンのダンスが、とてもとてもよく似合う。


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