2011年1月17日月曜日

時計じかけのオレンジ@赤坂ACTシアター[舞台・演劇]


 これはゴキゲンなお芝居だった。生バンドが演奏する音楽もいいが、たぶんいちばん印象的なのは、色鮮やかな映像の美しさ。舞台に出ているキャストが、みんなオレンジ色の服を着ていたりして。まあこういうのは、蜷川幸雄のシェイクスピアなんかでも、普通にやっていることだけれど。ここのところずっと、オーソン・ウェルズの勉強をしていて、ブラック&ホワイトの映像ばかり見ていたので、この色彩と元気さには、気分がハイになった。ロンドンやニューヨークに行かなくてもこんなのが見られるのなら、東京も捨てたものじゃない。バック・スクリーンに映る大きな映像が、元気なヴィジュアルに大きく寄与している。(ホリプロがバックについた)ハイテク(と言うほどではないけれど)な芝居というのもいいものだ、と素直にニコニコしてしまう。

 『時計じかけのオレンジ』といえば、言うまでもなくキューブリックの映画が有名だけれど、昔この映画を見たとき、それなりに面白かったとは思うが、お気に入りに入れたような記憶がない。行動心理学者スキナーのヴィジョンを諷刺した、管理主義的社会批判という類の、SFにありがちなモラルというのも何だか単純だし、当時はあまり深い?話のようには思えなかったのではないかと思う。しかし、あまりにも芝居が気に入ったので、とりあえずその場でバージェスの原作(の翻訳)を買った。昔原書は読んでいたのだが、当時の読解忍耐力?では、アレックスたちが使うスラング、バージェスの造語のナッドサットを読み飛ばして、そのままにしてしまっていたのだと思う。バージェスが解説書を書いている『ユリシーズ』ほどの規模ではないが、言語の魅力が分からなければ、この作品を楽しく読んだことにはならないからだ。今回初めて読んだ翻訳はきちんとしていて、面白かった。言語と文体のパワーが楽しくて、舞台を見たときと同様の快感がある。さらにDVDも買ってきて映画も見直すと、そのあまりにも素晴らしく美しい映像に、ヤられてしまった。というわけで、以前は今一つ何とも思わなかった『時計じかけのオレンジ』だが、すっかり好きになってしまった。実家の倉庫をひっくり返して、イギリスに行く前(つまり日本で)とイギリス滞在中に買って2冊持っているはずの原書を探したけれど見当たらず、また買う羽目に。

 『時計じかけのオレンジ』は、いろいろな意味で論争を引き起こしてきた作品だが、そのひとつに、エンディングに関する問題がある。キューブリックが底本に使った当時のアメリカ版は、暴力を振るうと気持ち悪くなるという条件付けが解かれて、元の非行少年?に戻るところで終っているのに対し、バージェスの原作にはアレックスがなんとなくそろそろ家庭でも持ってみたいなぁと思うという、最終章がついていたという話である。それにしても、何だか変な話ではある。原作者に対して出版社側が、ペシミスティックなエンディングを要求したというのだから。だって、普通は逆でしょう。そんな話は枚挙に暇がないけれど、『偉大なるアンバーソン家の人々』の世にも美しかったらしいペシミスティックな映像は、スタジオのバカによってカットされ、しかも捨てられて、ありきたりなハッピー・エンディング・チックなラストが付加されて、今や映画は幻の名作になってしまった(現存するフィルムだけでも十分うっとりするが、ウェルズによれば、こんなものではなかったのだそうだ)。バージェスの場合は、この反対だ(もっとも、キューブリックはアレックスが成長するなんていうエンディングは退ける、という立場だけれど)。これをバージェスは、自分の本はケネディ的に進歩を信じるものだったのに、アメリカの要求したものはニクソン的なペシミズムだったと、面白い言い方をしている。

 それで、どちらがいいのだろうか。舞台を見て映画を見直してみたわたしは、正直どっちでもいいんじゃない、と思った。というのは、今回の舞台と映画とでは、受ける印象があんまり変わらなかったからだ。肝は圧倒的なヴィジュアルとサウンドの快楽なのだから、オチなんかどうでもいいのである。いや、じつは舞台で、映画と同様に、「おれは、まるっきりなおったんだ」というところまで来て、いったん幕が下りたとき、「え?もう終わり?」と何だか物足りなかった。もっともそれは、舞台の演出の河原雅彦氏が、そういうように話を作ったからなのかも知れないのだが。バージェスの原作にしたところで、元気な文体の魅力を堪能できれば、最終章がついていたからといって、そこに胡散臭いモラリティが加味されるということもないのだ。付け加えておけば、バージェスの原作は3部に分かれていて、そのすべてが7章から構成されているが、この7という数字は、シェイクスピアの『お気に召すまま』の有名な台詞、人生は7つの段階に分かれている、から来ていると思われる。であればむしろ、そうやってアレックスが大人になって、息子ができて、その息子がまたアレックスのようなことを仕出かすかも知れないという意味では、バカみたいに同じことを反復する人類に対する、よりクールなヴィジョンを提供している、とさえいえるかもしれない。

さて、かわりに河原氏の付けたオチは、青年期的なヴァイオレンスのエネルギーは、クリエイティヴィティに変わるのだ、とガナリ立てる、パンク・コーラス・ショウだった。オチが必要なのだとすれば、河原ヴァージョンはまったくの正論だ。もっとも、演出家も含めて、どうも今回の芝居に出ているキャストは、相当私生活がメチャクチャな人たちらしい。「精一杯妥協なく創る…から、私生活はダメでもいいでしょ、突っ込まないでよソコ」、と河原氏は言うのであるが、それにしてもいったいどうメチャクチャなんだろう、と興味が湧くところではある。それくらいメチャクチャなエネルギーがあるから、こんなにワクワクする芝居ができるとすれば、アレックス的エネルギーは見事に昇華されて、じゅうぶん社会の役に立っているということになる、などというオチは、まあ、どうでもいいか。

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