2011年1月16日日曜日

エリックを探して

黄金時代のハリウッドのロマンティック・コメディが、いつも同じ結末で終わってもそれでしあわせになれるのと同様に、イギリス映画というのは結構、同じ話が多い。そして、それはわたしにしあわせをもたらす。『エリックを探して』を見ながらそんなことを考えていたわたしの脳裏には、例えば『フル・モンティ』や『シャンプー台の向こうに』(Blow Dryの邦題を調べたらこういう題名だったらしい…)なんかがあったのだけれど、とにかくイギリスの文化的活力を支えているのは、これらの映画で活躍するような、限りなくワーキングに近いようなロウアーミドル(下層めの中流階級)である。もっとも、ちょっと歴史を遡った映画なら、面白いのは貴族なのだけれど、貴族が事実上いなくなってしまった後のイギリス文化の主役は、圧倒的に彼らである。かのモンティ・パイソンはおしなべて、ロウアーミドル出身であって、その出自が創造性にもっとも適していると自ら言っている。アッパーミドルやミドルはマネーの稼ぎ出しと運用で忙しくて、映画の題材にしてもあまり面白くない。そこからちょっとはみ出たロウアーミドルこそ、現代イギリス社会のヒーローになる。

ロウアーミドルというのはどういうのかというと、とりあえずまず冴えない。主人公たちはそうではないけれど、彼らの仲間には太っているのが多い。パブへ出かけてビールを飲み、モニターでサッカーの試合を見る。家にいるのはパートナーとその連れ子。現在は結婚していないことも多い。貧乏暇なしで、子供は問題を起こしており、本人もだいたいウツである。この映画のエリックは、パニック症候群らしい。それで愛する妻リリーと子供のいる家から、まだ若い時分のある日飛び出し、そのまま帰ることができなかった。エリックの後の再婚相手?は出て行き、彼は単身彼女の連れ子を育てている。カウンセラーは出てこないけれど、リリーは理学療養士であり、パニックの患者には慣れている。郵便局員のエリックの同僚たちが、セルフヘルプのグループセラピーみたいなことをやっているのは、映画の中で最初に大笑いをしてしまった場面だった。大学4年のエリックとリリーの子供サムは、シングルマザーのようである。

映画の筋を追おうとしているわけではなくても、図らずも追ってしまっているようなことになるのは、言うまでもなくイギリス・ロウアーミドルのリアリティというものを、ケン・ローチ(脚本はポール・ラヴァティ)が見事に再現しているから。もっとも、あまりにもありきたりなものを写しているだけなので、見事にという形容語句を使うのが躊躇われる。しかし、そのありきたりさがこれでもかと積み重なってくるにつけ、ニヤニヤは止まらなくなってくる。これはコメディの常道である。当人たちにとってはむしろ悲惨な毎日なのだけれど、距離を置いて見る観客にはそれが可笑しい。これを見るイギリス・ロウアーミドルの観客にとっては、自虐的ユーモアということになるかも知れない。イギリス人の得意芸である。

それにしても、ありきたりなものが面白いというのは、一体どういうわけなのか。芸術というのは、ありきたりな日常を超える世界を愉しむものではなかったのか。じつは我々日本人にとってはイギリスは別世界だから、その別世界の事情が細密に描写されればされるほど、そのような愉しみが増すということはある。しかし、イギリス映画が楽しいのには、それ以上の理由がある。イギリスのコメディが秀逸なのは、イギリスが「没落」国家であることと関係がある。これは、先にひとむかし前の貴族を扱った話は面白い、と言ったことと通じている。ひとむかし前の貴族にしろ、今のロウアーミドルにしろ、現代社会において彼らは、負け組である。負け組を負けとして描くことが、面白いわけではない。マネー社会における負けが、文化的価値において勝ちに転嫁する、そのメビウスの輪の妙を自虐的に愉しむところに、イギリス映画の快楽があるのである。悲劇の主人公が死んでもカタルシスの芸術的価値が低くなることには当然ならないのと同様、ケン・ローチの普段は潰えてゆく負け組の人間たちは、その人生を精一杯生き切ることによって勝つけれど、今回の映画はコメディだから、彼ら冴えない庶民たちが、エリックの息子を脅して自分の犯罪に巻き込んで困らせているギャングの鼻をあかしてやるという、文字通りの逆転ヒーロー劇がある。実際には、大した勝利があるわけじゃない。それによって金が儲かったりするわけではさらにない。けれど彼らの物語は、パニック症候群のロウアーミドルの市民に、最後の闘いがハムレットに与えるような、精神的なカタルシスを与えている。

この映画のクライマックスは、ドタバタ逆転ヒーロー劇を演じるエリックの同僚たち、つまり郵便局員たちがギャングに向かって、「お前がどこへ逃げたって俺たちがお前の居所を突き止めてみせる、なぜなら俺たちは、(一呼吸置いて)郵便配達人だからだ!」と言うところである。これには呵々大笑してしまった。郵便配達人は必ずしもカッコいい職業ではないかも知れないけれど、その職業的特権には、住人の住所と名前の情報を持つということがある。ここで個人情報云々とか、担当でない区域に移ったらどうなるのかといった、野暮な突っ込みは止めにしよう。ここにおいて郵便配達人は、紛れもないヒーローに変身する。まさにメビウスの帯である。

ここでわたしは急に、以前書いたモンティ・パイソン論の終わりで、マイケル・ペイリンの郵便局への執着に言及したことを思い出した。ペイリンが書いた小説の主人公は、まさしく郵便局員であって、冴えない主人公は小説のクライマックスで、突如ヒーローに変身する。そう、モンティ・パイソンには、自転車修理マンというのもあった。自転車を修理するというかなりロウアーミドル・チックな男が、Sの字のコスチュームに身を包んだスーパーマンたちの社会で、ヒーローとして崇められているスケッチである。『エリックを探して』で、主人公のリトル・エリックを励まし続けて、最後のどんでん返しを仕組むための勇気を与えるメンターは、ビッグ・エリックつまりサッカー界のヒーロー、エリック・カントナである。実際この映画は、サッカー好きのケン・ローチに、カントナが企画を持ち込んで実現したものらしい。カントナ自身はフランス本国を追われてイギリスへ渡り、マンチェスター・ユナイテッドで活躍した亡命者のような存在だけれど、スター・サッカー選手といえばワーキング・クラス、ロウワーミドル・クラスの成功物語であるのが通常である。いわばサッカー選手と郵便局員というのは、イギリスのワーキングないしロウワーミドルの2大ヒーローであると言うべきかも知れない。両者ともにチームで力を発揮する、というところが共通している、というか、ケン・ローチはそれを強調している。ついでに付け加えておけば、エリックと当時の美少女リリーを結びつけるのは、これもイギリス・ワーキング+ロウワーミドルのお家芸、ロックンロールだった。

この映画の中で彼ら2大ヒーローは出会い、そこからひとつの英雄劇が演出される。郵便局員にそのような特別なステイタスを与えられる国、それがハマる国は、おそらく現代イギリスを擱いて他にない。ペイリンが賛を捧げるような郵便局員はローテクに誇りを持っているが、エリックたちは息子のアイディアで、You Tubeを武器に使うことにする。郵便局員はそれをブルーチューブと言い間違ったりするのだが、そんなちょっとばかりのメディア戦略が、現代社会の逆転劇演出のスパイスとして使われているのも、温かい微笑を誘う。何ら力のない者でもちょっとしたはずみで英雄になれたりするのが、現代メディア社会の特質でもあるわけであるし。

イギリス映画の快楽は、マーケティング調査に基づいて作られる、CGを駆使した3Dの商業的映像から限りなく遠く離れた、そういうささやかなローカリズムの勝利に存している。

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