2016年10月18日火曜日

6才のボクが、大人になるまで リチャード・リンクレイター監督

『6才のボクが、大人になるまで』(2014)。166分があっという間な、素晴らしく愛おしい映画。6才の子供が18才になって大学に入学するまでを、12年間かけて追っている。子供がどんどん大きくなっていくのが、断続的につながっていて、前のシーンと後のシーンとで、顔が全く違うように変わっているのが、とてもリアルだ。

それもそのはず、例えば『フォレスト・ガンプ』のように、子供の時の話は子役がやり、それが不自然でない時期になると大人役(ガンプならトム・ハンクス)のメイン俳優がやり、月日の流れを見せるために違うヘアスタイルや服装にしている、というのとは、全く違う。本当に月日が経っているからだ。12年間が166分に詰め込まれているから、単純計算すれば1年分は14分にしかならない。だから主人公(エラー・コルトレーン)の顔も、主人公の姉(じつは監督の娘、ローレライ・リンクレイター)の顔も、ついさっき見た顔と全然違うのである。

それでいてというか、だからというか、エピソードの新鮮なつながりが、見ていて全く飽きない。それはドラマティックに仕込まれた物語ではなく、極めて日常的なエピソードの積み重ねであるにもかかわらず、そしてそれゆえに、とてもフレッシュで、そのフレッシュさは、顔や髪型やその色やネイルの色などが目まぐるしく変わることに、呼応しているのである。つまり、わざと変えているのではなく、自然に変わっている、ルックスにだ。だからとても自然で、とても心地よく、わざとらしいところが、全くない。

しかし、そのフレッシュさの依って来るところは、単にリアルな日常を撮ったから、なのではない。この映画はドキュメンタリーではない。物語である。監督は、子供時代の映画を撮ろうと思ったのだ、と言っている。そうは言っていないけれど、もちろん自分の、である。舞台になっているオースティンは、監督の出身地だ。父親が母親と離婚して別の女性と再婚したのも、離婚した母親が社会人入学で大学に入って心理学を勉強したのも、リンクレイター自身の両親と同じだ。

しかしリンクレイターは、自分の話をベースにしながら、それを12年にわたって演じてくれる俳優たちに、前回撮ってから今回までの間に生起した人生の話も織り交ぜて脚本を書いたので、撮影の前日くらいにしかそれは出来上がらなかった。親も素晴らしいのだがコルトレーンが素晴らしく、ちょっとフェミニンで繊細で芸術家気質で、写真に熱中して、暗室に篭って教師に説教されたりするところがリアルなのは、多分監督本人のエピソードで、コルトレーンが監督とシンクロするキャラクターだからなのだろう。

これは物語なのだけれど、まさに彼らの人生の物語であり、つねにフレッシュなその魅力が、この映画には12年分詰まっている。ドキュメンタリーでもない、お決まりのストーリーでもない、12年も普通は撮り続けることはできないという意味で、映画を超えているのだが、まさにこれこそは映画なのである。

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