2016年10月21日金曜日

キャリントン

『キャリントン』Carrington (1995)。胸を掴まれるような映画だった。それは何よりも、リットン・ストレーチーに胸を掴まれたのだと思う。ジョナサン・プライスは、この演技で1995年のカンヌの男優賞を取っている。映画自体も、審査員特別賞と、脚本賞を取っている。脚本は監督クリストファー・ハンプトンで、原作はリットン・ストレイチーの伝記である。伝記を書いたマイケル・ホルロイドは、ストレイチーの伝記の中に、当時の芸術家たちの人間模様を描いたのだと書いている。この映画が中心にするのは、ストレイチーではなく彼のパートナー、キャリントンである。

エマ・トンプソンのキャリントンはもちろんいいのだが、しかし圧倒的にいいのは、やはりリットンである。映画の始まりは1915年で、リットンは戦争忌避者として名乗りを上げて、いきなり裁判にかかる。声高に、攻撃的に主張しているのではなく、あくまでも飄々とかわしているところが、可愛らしい。そう、ヤギのような髭をたたえたおじさんなのだが、とにかく可愛いのである。終盤で、若いオックスフォードの大学生の恋人(リットンはゲイである)に入れ込みすぎて振られて、静かに泣いているところもあった。書くことが好きな作家なんているのかな、僕には苦痛でしかないよ、と言うところもある。ヴァージニア・ウルフに求婚したんだ、とキャリントンに打ち明け、彼女は承諾したの、とキャリントンが聞くと、そう、だから大変だったんだ、とボソッと言う。そう、いつも何かボソっと言うのだ。その知性的な慎みの言葉が、心に刺さる。

でも君には求婚したいな、と彼はキャリントンに言う。結局結婚はせず、死ぬ前に、僕は君を愛している、なぜ結婚しなかったのだろう、と言うのが、遺言のようになっていた。出会って惹かれあってから一緒に暮らしていた二人だが、リットンが女性の肉体に反応しないため、お互いの性向を満たす相手が入れ替わり立ち代り現れて、三人や四人で同居生活を送る。そこに例えば不倫、と言うような言葉は何か似つかわしくない。それは彼らが真摯に築いた生活だった。

リットンは作家であり、キャリントンは画家である。リットンは本を出版して成功したが、キャリントンは評価を得ていながら、個展の誘いなどは断っていた。彼女に取っては絵を描くことは精神の営みであり、世俗に名を売るといったことには関心がなかったのである。

その代わりにこの映画にあるもの、それはセックスであるといってもいい。わざとそう言ったが、もちろんそれは愛ということだ。ボーイッシュなキャリントンを見たリットンは少年だと思い、彼女を見初める。女性であるとわかっても、彼女の魅力的な耳にキスをする。彼女はそれを許さないが、彼の寝顔を見て好きになってしまう。その時彼女が付き合っていた男と、すでに28歳であったにもかかわらず、彼女はどうしてもセックスしたくない。

それからまた別の男レイフが現れて、三人の共同生活を始め、レイフはやがてキャリントンに結婚を迫る。レイフとキャリントンは結婚するが、結局キャリントンはレイフの友人ジェラルドと、レイフも別の女性と、情事に陥る。ジェラルドはスペインに行ってしまい、キャリントンはリットンを見捨てられずに留まる。本当に愛していたのはリットンだけだが、彼がゲイであったために、他の男と肉体的な関係を結ぶ、という自由で緩やかな愛の形だったようだ。最後の男ジョージは船員で、知性も芸術性もない男だったが、キャリントンは性的にもっとも満たされた。

やがてリットンは病死し、キャリントンは猟銃で後追い自殺をする。側から見れば数奇な同居生活だったのかもしれない。しかしキャリントンは、私たちはこの上なく幸せだった、と言う。それは彼らにとって、人生を、愛を誠実に追求した、魂にもっとも近い愛の形の、模索と実践だったのだ。

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