2016年10月15日土曜日

海街diary 是枝裕和

 
是枝は自分で、気がつくと見捨てられた子供たちばかり撮っている、と書いている。原作の吉田秋生は、映画を見ると確かにそうなっている、という書き方をしているので、原作は必ずしもそうではないらしい。しかし是枝は原作に惚れ込んでおり、原作の味わいを壊さないように作ったと言っていたはずである。家の縁側のショットが、『クーリンチェ殺人事件』のエドワード・ヤンだった。クーリンチェも、だらしない親の世代に対して、子供たちが自分たちの世界を作り、そして破滅していく話である。

 この話は、綾瀬はるかと広瀬すずが、しっかり者の主人公なのだが、それは実は子供時代を奪われていたからだという。親はとにかく究極のダメ人間ばかり。子供を育てるという責任をみな放棄して、自分のやりたいこと(というか次の男)の方へ行ってしまう。そして上の子供は親代わりとしてがんばる。

 しかし綾瀬はるかは、じつは自分の親と同じことをしている。つまり既婚の男と恋愛関係にあるのである。それで広瀬すずが、自分の母親のことを恥じて、結婚している男の人を好きになるなんて良くないですよね、と綾瀬はるかに言ったとき、彼女が見せる曇った表情が、素晴らしい。ダメな両親と同じことをしている自分にダメ出しをする彼女の表情が、美しく現されている。そこで彼女は、人生のどうしようもなさを知る。親を許しはしないまでも、彼らに対する理解の風が、一瞬吹き抜ける、といったところか。

 是枝の映画には、家族の喪失が、家族の再生(作り直し)によってしか補えない、子供時代の記憶は子供を育てることでその生き直しをすることによってしか補えない、といったテーマが、一貫している。あるいは、失われた人生のやり直し、といったようなこと。それは『ワンダフルライフ』で、香川京子との結婚生活を戦死によって阻まれたARATAが、死後五十年くらいの歳月を、死者を送り出す場所に留まった末に冥界でやり直していたのと、同じである。

 是枝の映画に出てくる、優しいけれどもダメな父親というのは、恐らくは、とりもなおさず彼自身の父親(または彼らの世代)なのであって、そうすると彼が描いている置いてきぼりにされた子供たちというのは、自分(たち)のことだということになる。彼の映画は、強い父親に守られずに育ったために、ダメ男風(実際には芸術家として大成している)な自分の大変な人生を肯定するための映画だ、ということにもなる。

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