2009年12月14日月曜日

ロメオ・カステルッチの『神曲・地獄篇』


 ウォーを集中的に読んでいて、「結局、これって『神曲』なんじゃないの?」と思っていたら、偶々ロメオ・カステルッチの3部作舞台が東京にやってくるというので、観に行くことに。この週末は、「地獄篇」のヴィジュアル・シアター。ポスト・パフォーマンス・トークがあるというので、土曜日の夜のチケットを買っておいたのだが、ちょっとした事情で遅れてしまい、日曜にももう一度観た。舞台はもちろんだけれど、カステルッチと飴屋法水との、このトークがまた凄い。

 通訳を通しているという物理的状況も、もちろん関係しているが、このトーク、まったく対談になっていない。あたかもお互いに向かい合うことなく、その間が、カステルッチ氏の舞台という鏡に仕切られている、というような構造で、2人は喋り続けていた。飴谷氏が、カステルッチ氏の舞台という鏡に反射された自分の話をして、その鏡の裏にいるカステルッチ氏は飴谷氏の言葉を聞き、またぼつぼつと自分の話をする、という感じ。
 
 最初から、2人の現実と虚構との捉え方が、微妙に違っているのだが、もちろん彼らはそれについて弁証法的な議論をする気などさらさらなくて、お互いが自分の意見を、並行して言っている。2人の違いは簡単に言えば、カステルッチ氏が虚構というものを現実のつっかえ棒のように恃んでいるのに対し、飴谷氏はその違いはない、と主張しているところだ。観客と舞台上の人との違いが分らない、虚構と現実との区別も分らない。というのも虚構じゃない現実はないからで、みんなが視ている以上現実でない虚構はないし、存在そのものが虚構であるような現実しか生きられない、というのが飴谷氏の立場。カステルッチ氏は、演劇は虚構であり、現実を超えるマジックを持っている。芸術を観ているときは丸裸のような感覚である。虚構であるけれども真実を明らかにする、「剥ぐ」。演劇は言葉では表現できないものを表現する。肉体と時間の経過の感覚が、実生活に一番近いアートであり、第2の人生のようなものだ。飴谷氏にとって舞台は、現実のヴァリエーションに過ぎない。カステルッチ氏が、現実からの救援所としての演劇というものを信じていて、その救けによって現実を忍従するというキリスト教的な世界観を持っているとすれば、飴谷氏は、万事境界が曖昧な日本人的に、そういう価値判断そのものを、根源的かつ楽天的に宙吊りにしている、ということのようである。 ベケットは、「ダンテの浄界は円錐形をなし、したがって最高地点を内包する。ジョイス氏の浄罪は球形をなし、最高地点を含まない。前者には、ほんものの徒食(浄罪界前域)から理想的徒食(地上の楽園)への上昇があり、後者は上昇もなく理想的徒食もない」、と書いているが、飴谷氏の感性は、もしかすると、ダンテというよりはジョイスに近いところがあるのかも知れない。
 
 彼らは2人とも、動物好きである。飴谷氏は以前、梟と一緒に住んでいた。梟は人間に似ている。門禽類(実際の分類は違うようだが、彼はそう言っていた)の中で身体能力が低い。鷹とか鷲とかに比べて。だから用心深くなる。カラスなどと比べたらダメだが、でも頭はいい。身体能力以外のところを発達させて生き延びているところと、眼が前に向いているところが、人間に似ている。自分は女性のパートナーと同居しているが、子供はいらないと思っていたので、梟と一緒に住んでいた。山で放し飼いのようにして飼っていたが、ある時野生の門禽類に食べられてしまって、失敗した。今は子供がいる。他方、農業学校で農業を学んでいたカステルッチ氏は、農業をやっていても動物と一緒にいられる訳ではないと分って道を変えた、動物は人生にとって不可欠なものであり、動物のいない人生なんて考えられない、と言う。ここでも飴谷氏は、淡々と動物との共生について語っているだけなのに対し、カステルッチ氏は、イタリア語で動物はアニマーレというが、それはアニマ(魂)を持っているものという意味である、人物に足りない生命を担っている、三匹の犬は私の魂を担っていると言う。人間ではない部分が本質である、と言い、動物の魂に救済の可能性を求めているかのようである。動物にベアトリーチェをみているということなのだろうが、アニマを持った3匹の犬というのは、ちょっと多神教的な感じもする。

 このように、ダンテ譲りに本質とか、救済とかいったものを信じており、演劇をそのための媒体と捉えているカステルッチ氏は、ダンテにおけるヴェルギリウス、つまり水先案内人として、アンディ・ウォーホルを登場させる。東京で一番美しいものはマクドナルド。ストックホルムで一番美しいものはマクドナルド。フィレンツェで一番美しいものはマクドナルド。北京とモスクワにはまだ美しいものがない、と言ったウォーホル。マクドナルドは、退屈で取るに足らない人間の反復としての社会という地獄を、端的に象徴している存在だ。グローバライゼーションという名のアメリカナイゼーションは、今や北京とモスクワにすら、その美しいマクドナルドを繁栄させている。ウォーホルの作品の名前を一つ一つ字幕に照らしながら、取り換え可能なエキストラたち、匿名の人間たちが、同じ磔刑の格好で、次々と舞台の向こう側へと堕ちていったのは、その退屈さゆえに、現実の地獄篇を射抜く、じつに鮮烈なイメージだった。カステルッチ氏の舞台だから当然とはいえ、確かに彼の言っていたことの方が、ここでは当てはまっているかも知れない。ウォーホルのイメージは、演劇的表現を与えられた現実であり、現実の本質的な様相を浮き彫りにしている。舞台がまず、観客を映し出す、前面が鏡である立方体の提示に始まり、途中ウォーホルが何度も観客にカメラを向けていたことに示されているように、それは現実の鏡である。しかし、現実を照射するその眩さによって、それは劇場をまた足を向けたい空間にする。闇の中では、黒と発光している白は同じである。ダンテ自身も、完全な黒と完全な白は入れ替わると言っている。神の光を目にした人間は暗闇に陥るし、完全な闇に対すると内にある光を求めるようになる。天国と地獄は、反転現象だ。地獄を表象した演劇空間は、まさにそういうものとして、天国だった。

 演劇について考えることは、現実を生きていく救けになる、とカステルッチ氏は言ったが、こんな風に語られた現実を視た後でそうである現実に戻らなければならないのは、それにしてもますますツラいことである。

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