2009年12月20日日曜日

ロメオ・カステルッチの神曲・煉獄篇と天国篇

 にしすがも創造舎に着いたら、そこは廃校になった校舎だった。ロメオ・カステルッチの神曲・天国篇のライブ・インスタレーションの会場だ。一度に5人程しか入れないため、当日券狙いだった友人は入れず、わたしもしばらく待たされて、道路の向こうにあるカフェで、きのこのキッシュを食べながら時間を潰す。キッシュというのは生クリームと卵の生地をタルト・ケースの中で焼いて作るのだが、ここのキッシュは中身がホワイトソースで、グラタンみたいになっていて驚いた。抹茶のマフィンを頼んだ友人が、「大変なものを頼んじゃったわ!」と大騒ぎをするので覗いてみると、マフィンの中に何と「あんこ」が入っている。キッシュを開けてみたらグラタンというのも凄いが、確かにあんこの入ったマフィンというのも、始めてである。カフェ・ブームのときによくあった、オーナーの趣味に彩られた、アマチュア・チックな内装の店だ。お姉さんが毎日その日の気分で、即興でちょっと変わった食べ物を作って出しているらしい。ケーキの中にコインが入っていると何か罰ゲームをしなければならない、というのがあるけれど、確かに今日はどんな爆弾が仕込んであるんだろう、と思いながらここの食べ物を開けてみる、というのは、なかなかスリリングかも知れない。

415分の整理券というのをもらって、時間通りに行ったのだが、結局5時くらいにならないと、展示に入れなかった。1人出ると1人入れるというシステムになっているので、当事者側の計算よりも長い間、入った人はそこに留まっていたかったのだ、ということになる。待っている間、わたしの後ろに並んでいた女の人と、何となく話を始めると、何と彼女は地獄篇に出ていたのだと言う。Hey Girl!を観てカステルッチのファンになり、観るだけではなくどうしてもあっち側に行かなければと思って、エキストラに出させてもらったらしい。ちなみにこの芝居(というかイメージ・パフォーマンス)には、カステルッチ本人とウォーホル以外にキャラクターはいないので、エキストラというのは端役という意味ではない。カステルッチは日本が好きで、だから日本公演を最後に持ってきたのだと、彼女が教えてくれる。日本人はちゃんと規則を守って、間をきっちりと取り、その通りに演技をするからなのだそうだ。ヨーロッパのエキストラたちは、髪の毛がひっぱられると本番中なのに「イタ!(Ouch!)」と言ったり、適当に立ち位置をアドリブしてみたりと、勝手に行動するので、イメージ通りになかなかいかないのだという。ウォーホル的な匿名の個人たちを表現するのに、顔の見えない人種として国際的に有名な、日本人がもっとも適切であるというのは、頷ける話である。今日の公演は舞台劇なのだと思っていたけれど、結局台詞はあんまりなくて、最後の方のイメージの方がやっぱり強烈でしたよね、とわたしが言うと、彼女はカステルッチの「音」を絶賛していた。京都芸術劇場の、『ガリバー&スウィフト―作家ジョナサン・スウィフトの猫・料理法―』というのにも今度出ます、と彼女が言うので、名刺を頂き、チケットを頼むことに。


そうこうしているうちに中に入ると、黒塗りのボックスになっている空間の中心部分が、白く塗ってある。一瞬ぽかんとしていると、奥の方に置いてある1m立方くらいのライトの方から人がぞろぞろ出てくるので、あ、ここに入るのか、と解る。ライトは天国への導きの光だったのである。「天国」の中は、やはり黒塗りで、前方では水がびしゃびしゃと流れ落ちている。恐る恐るどんどん歩いて行ったら、効果だけではなく本当に水に濡れるので、それより前に進むことはできない。じめじめした黒塗りの空間なのに、神社仏閣にいるような感覚に襲われる。水の流れ滴る上方では、骨ばった裸体が、地獄で蜘蛛の糸を探ってでもいるような、喘ぎ苦しむようなパフォーマンスを、ひたすらに続けている。一代で会社を立ち上げて成長させたある身近なやり手の経営者が、上へ上へと登りつづけて、登った先には何もなかった、と言っていたのだが、それもこういうイメージなんだろう。地獄を経めぐり、煉獄で浄罪される、その旅の過程こそが重要なのであって、着いてしまったと思ったときにそこに開けている世界は、空虚である。ユートピアが、どこにもない場所である所以だ。フーコーは、アトピアという言葉を使っている。それでまた、ドゥルーズと伊丹十三が2人とも自宅のアパルトマン/マンションから投身自殺したイメージが、このパフォーマーに重なって視えた。あの2人はダンテ同様、しかしおそらくダンテのように究極の目的地を信じないまま、地獄と煉獄の旅に出たのではなかろうかと。

煉獄篇では、恒常的に自分に暴力を振われながら、その父の罪を赦す息子が成長して、煉獄をのたうちまわる姿に、観ている者も同化して、浄罪のイメジャリーの世界をともに経巡っているような感覚になる。観客もこうして、天国篇へ準備の階段を上っていくのである。三軒茶屋から西巣鴨に場所を変えて、天国に入ってみる。しばらく茫然とそこに立ち尽くした後、我に返って外に出ると、ここのところ家族にも友人にもその薄さと暖かさを絶賛していたヒートテックを着ているのに、急に怖気がしてきて、外気がいやに冷たい。『神曲』を視覚化した芸術家はたくさんいるけれど、彼らの描くイメージは、結局地獄篇が一番選れていることが多い。カステルッチ版も、おそらくそうだろう。天国篇の空間を出たわたしは、あの3匹の犬がカステルッチを襲い、ウォーホルの作品名とともに人々が磔刑の姿で落ちてゆく、地獄篇のイメジャリーの中に、帰りたくなった。

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