2009年12月16日水曜日

映画『ドレッサー』(1983)


 喜劇の題名は一般的名前であり、悲劇の題名は特定の個人の名前であると言ったのは、ベルクソンである。喜劇の題名は例えば『人間嫌い』であり、決して『ハムレット』や『リア王』や『マクベス』にはなり得ない。それは悲劇の主人公が強烈な個性であるのに対し、喜劇の主人公は類型だからである。

 それでは『ドレッサー』は、どちらになるのだろう。これはアルバート・フィニー演ずるシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優が、『リア王』の公演をする前後の物語だ。彼は「サー(Sir)」としか呼ばれず、固有名がない。サーは日本でいえば勝新太郎か三船敏郎かという「個性」であるけれども、それはシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優だったらとりあえずこういう性格だろう、という「類型」でもあるからだ。戦時下のイギリス。劇場は次々に爆破され、若い役者はみな徴兵に取られてしまい、舞台化粧に使うコーンスターチの確保も儘ならない。厳しい戦時下であれば人間の魂にとってますます必要でありながら、当然のごとく芸術は抑圧されている戦時下の時代状況が、時代の推移を体現している上2人の娘の裏切りにあって没落してゆくリア王の状況と、重ね合わされている。映画の前半で舞台を席巻しているのは、こうした状況で錯乱状態にある、老齢のサーであると言っていい。

 サーのドレッサー(衣装係)であり、楽屋でサーを風呂に入れ、下着を洗濯し、錯乱して台詞を混同するサーにどの芝居か思い出させてやり、と何から何まで細々と面倒を見ているおカマ言葉のノーマン(トム・コートニイ)は、さしずめリア王の道化である。そういえばリア王の道化は、「道化」であって名前がない。舞台の原作を書き、映画化に際しても自ら脚本を担当したロナルド・ハーウッドが、サーをサーとしか呼んでいないのは、このことを現代に反転させた、達意の仕掛けのように思える。あくまでも主役はドレッサーなのだが、ドレッサーにドレッサーというアイデンティティが生じるのは、あくまでもサーがいるからだ。サーがいなければ、ドレッサーという主体が存在できないのは、リア王と道化の関係と同じである。芝居の最初では舞台に出ることすら危ぶまれたサーは、無事に一世一代の名演をし、若い女優をコーデリアに見立てて両腕で抱きかかえた後、呆気なく息を引き取る。最期は思いのほか静かだった。サーが亡くなると、確かに(映画の)舞台は、急にひっそりしてしまう。最期に遺言のように、観客はさることながら、小道具係、照明係にまで感謝の意を表したサーは、ドレッサーには一言の挨拶もなかった。ノーマンはそのことに憤慨しつつ、これから自分がどうして生きていけばいいのか途方に暮れる。芝居=映画はこうして、何だか尻すぼみに終わる。

 『ドレッサー』はあたかも、サーという中心を喪ってもまだ生き続けなければならないノーマンの、日常性の悲劇がこれから始まるというところで、終わっているかのようである。悲劇では主人公が死ぬところが最大のクライマックスであるのだが、この劇=映画ではそこからエンドレスなアンチ・クライマックスが始まるのだ。ヤン・コットが『リア王』をベケットの『勝負の終わり』に準えられたのは有名な話だが、『ドレッサー』はそのような現代における悲/喜劇の性質を、絶妙に捉えている。「ドレッサー」という題名の意味は、そこにある。

ちなみに、アメリカのアマゾンでUS版のDVDを買ったら、日本語字幕がついていました(・。・)

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