2009年7月12日日曜日

日本人はアイデンティティを作ろうとし、イギリス人は壊そうとしている


 昨日は異文化理解教育研究会の合評会。『異文化理解教育』に載ったわたしの論文、「ノンセンスなアイデンティティの万華鏡:モンティ・パイソンのマイケル・ペイリン」を、大東和重先生が取り上げてくださった。専門は中国語・比較文学なのに、わざわざイギリスのユーモア関係の本を読んだり、モンティ・パイソンのヴィデオを買って見てくださっていて、本当にありがたい。左の写真はペイリン。

 その中で取り上げられていた論点のひとつが、モンティ・パイソンのような現実をひっくり返すようなパロディのユーモアは、イギリスのようにきっちりした伝統文化のある社会でこそ成り立つ、というもの。まったくその通りなので、わたしのイギリス好きの一端は、そこにある。つまり、文化が生活にしっかりと根付いているので、芸術が自然体の生活に溶け込んでいる。テレビ番組を見ていても、すごくしっかり作られていて、日本だったらポストモダンなヴァラエティー番組がやたらとあるところに、ドキュメンタリー番組が目白押しだったりして、これがまた、面白いのである。モンティ・パイソンだって、単に伝統的な現実を脱構築しているのではなくて、それに対する、もうひとつの現実を、すごくしっかりと構築している、コメディなのだ。

 それで思い出したのが、先日シェイクスピアの『真夏の夜の夢』についての講義をしたときのこと。アテネから森へ入っていく恋人たちや、ボトムを中心とする職人たちは、森の中でアイデンティティーを撹乱されたり、文字通り変身したりして、人格の変容を経て、アテネに帰って結婚することができる、という話をしたら、日本人はアイデンティティーを作ろうとしているが、イギリス人はアイデンティティーを壊そうとしている、というコメントを書いた学生がいたのだ。

 これには驚いたけれど、鋭い指摘なのかも知れない。日本には、転倒させるに値するような強固な現実やアイデンティティーが、ないのだろうか。現代は境界例の時代だというけれど、日本人はもともと、境界例な国民だったのだ。もちろん日本的な文化というものはあるのだが、それは境界例的な、輪郭の曖昧な、文化だということになるのかも知れない。だいたい、英語に比べて、日本語はきっちりした文法もないわけだし。

 どちらがいいという話でないのは当然だが、この違いについては、深く考えてみる余地がありそうです。


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