2009年7月27日月曜日

千の風になって

先々週の金曜、容態が急激に悪化した父の見舞で実家に戻ったら、見舞どころか彼岸への見送りになってしまった。元々肺が悪かったのが、癌の放射線治療の副作用で、間質性肺炎急性増悪という病気になり、文字通り急に増悪したと思ったら、日曜の朝にはもういなくなってしまったのだった。何だか実感が湧かなくて、と母は言ったが、わたしもまったく同じ気持ちである。わたしは大学院を1つ出るまではずっと実家に住んでいたが、その後はイギリスへ行ったり関西に行ったりなので、パパも同じようにどこかへ行ったと思えばいいのよ、と言うと、母も納得していたようだった。もうこっちへは帰って来ないけど。

通夜の前の晩、葬儀を取り仕切ってくれた叔父が、酔って家系図を書きはじめた。父もなかなか大変な人だったのだが、それは亡くなるまでうちに同居していた、祖父の血筋であるらしい。祖父の父はチャキチャキの江戸っ子の神田の鮨職人だったそうで、それでおじいちゃんは浅草が好きだったのね、と母が言う。祖父は電電公社の技師で、父とその姉は神戸生まれ、その下は朝鮮生まれなのだが、北海道にもいたことがあるらしい。それから満州鉄道の仕事でハルピンへ行ってそこで終戦を迎え、末娘は日本に帰る途中で亡くなった。アメ車の輸入会社を設立した祖父の兄が居を構えていた近所に越して、以来実家はずっとそこにある。途中のいつだか知らないけれど、祖父は彫刻の修行もしていた。わたしの知っている晩年の祖父の後姿は、象牙の彫刻家のものだった。

父は銀行員を脱サラして、スポーツ用品店を立ち上げた。わたしはいつも、夜遅くまでやっている店でうろちょろしながら、店員のお兄ちゃんやお姉ちゃんに一緒に遊んでもらっていた。週末はリトルリーグの監督で出ている父は家にはほとんどいなくて、家族水入らずなんてこともなく、正月は小さいわたしも、一緒にスキークラブのツアーに行った。子供のころスキーを教わったクラブのコーチたちが葬儀に来てくださり、「ちーちゃん?」と挨拶されて、懐かしかった。父は順風満帆の高度成長期の大波に乗るようにしてアメリカへ視察に行き、そこで得たアイディアを元にしてリトルリーグのシューズを特注して、それを目玉商品とする商事会社を作った。シューズは結構人気だったらしいのだが、安い金属バットを大量に仕入れたらすぐに金属バットが公式の試合で禁止になり、商事会社はそのうちに閉めた。区議会議員立候補の話がきたときには、家族で懇願してようやくやめさせた。その代わりに何かしたくてしょうがなかったらしく、人が集まってくるのが好きだった父は、ついにレストランまで始めてしまい、堅実な母は悲鳴を上げていた。以前マイケル・ジャクソンとボトムの話を書いたけれど、こう書くと、エネルギーが有り余っていろいろとせずにはいられないのは、父も同様だったようだ。

父は新しいPCを昨年の暮れごろかに買ったばかりで、長年使っていた古いWindows98がまだ残っていて、それを処分するためわたしは古いデータの整理をした。ハルピン会、日大二高、銀行の同窓会等々では軒並み幹事役を務め、ゴルフ会、うたごえの会からアコーディオンを持っての老人ホームのボランティアまで、晩年になってもあちこち人の世話ばかりしていた人で、ファイルの整理をしているとその活動の様子が脳裏に浮かんだ。終わったばかりの記念すべきゴルフ会の第100回コンペには、病魔に犯されて出席することができず、すでに意識の薄くなった父に、叔父がその写真を見せていた。そのときは、なぜ父の写っていない写真を見せるのか不思議だったが、それは父が楽しみにしていた100回記念の報告だったのだ。自ら波乱万丈の人生と題した、ハルピン会の文集の原稿もあった。出方はかなり違っているけれど、やはり自分はこの血統を継いでいるのだな、としみじみ感じた。

歌詞を自らタイプして印刷製本したうたごえの会の本の表紙には、おもちゃのアコーディオンを持った木の人形の写真をカラー印刷したものが、無造作に貼ってある。病室で父が、俺の葬式には静かな小学唱歌をかけてくれ、浜千鳥とか、と言っていたので、叔母さんたちが父のCDコレクションから歌を選んで、妹がそれをCDに編集したものをかけた。本人が好きだったというので、「千の風になって」も入れたが、以来わたしの頭の中でこの歌がぐるぐるまわっている。私のお墓の前で泣かないでください、そこに私はいません。千の風になって大きな空を吹きわたっています。確かにそういう人だった。

わたしのイギリスの先生は、祖父の日記を発見して、祖父から父の代に至って自分が結婚するまでの自伝を書いてベストセラーになった。それがそんなに売れたのも、やはり人間の人生、ライフ・ストーリーというものに関心の高い、イギリス文化のなせる技なんだろう。自伝はその名もBad Blood(悪い血)と言って、先生は、題名がいいでしょ、とにやにやしていた。その先生も、父と同じ肺の病気で、それからすぐに亡くなってしまった。二人ともヘビー・スモーカーだったのだ。自分の父親が亡くなるというすぐには予想していなかった事態に直面させられて、わたしは先生がなぜそれを書いたか少しわかった気がした。祖父や父親の物語を書くことで、一定の距離感をもって、自分の血筋をなぞることができる。

文学をやるということは、そういうライフ・ストーリーの醍醐味を味わうこと、人間の個性の表現を慈しむことだ。わたしにとってはそれが原点だ。それを表現にしていくことが、何より父への供養になるだろう。

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