2009年7月15日水曜日

実学としての文学とリベラル・アーツ


うちの大学の教養教育、語学教育の目的と目標を詳細かつ具体的に示す、というプロジェクト委員会に、収集される。そこで問題になったのが、「国際社会に対応できる英語をはじめとする外国語によるコミュニケーション能力を養う」という項目。企業が採用する人材に今もっとも求めているのは、このコミュニケーション能力というものらしい。件の項目は、要するに英会話や中国語会話ができる、ということを求めているので、それ以上のことを何か考えているわけではなさそうなのだが、教養外国語を教える教員としては、コミュニケーション力というものは単にTOEICの点数が上がるというようなことで身に付いたとは言えないということを明確にする必要があるのではないか、という話が出たのである。

 そういうコミュニケーション力というものは、語学や、おそらくもっと重要なのは、外国文化について勉強する、そして例えば留学生と交流してみる、といった行為の中で身に付く、ソフトウェアによる部分が大きい。ハードウェア的に語彙力が増えたからといって、その学生のコミュニケーション力が上がるとは、必ずしも言えないのである。そう言えば昨日ある学生が、E-Cubeといううちの大学の英語コミュニティで英会話のチャットをしていると、内容のレヴェルが低いことしか言えずに恥ずかしい、という話をしていて、わたしは、様々な英語力向上の方法についてアドヴァイスしたのち、「そういうことなら、日本語の本をたくさん読みなさい」、と言ったのだった。(写真はE-Cubeで英語でアクティヴィティをしている学生たち)

 そういうソフトウェアというか、人文能力、リベラル・アーツの教養とでもいうものは、マネーの時代にあっては軽視される傾向にある。しかし、企業がコミュニケーション力のある人材を求めているのなら、そういうソフトウェア重視の人間形成教育をこそ、大学はなすべきである。そしてそういう基礎能力を向上させるための教育は、もっといえば、文学をはじめとする人文科学である。活字、映像を問わず、テクストを読み解き、そこに意味、類似点、相違点などを見つけ出して分析したり、問いを立てたりすることができる能力がなければ、それによって自分を見つけたり失ったり立て直したり、また他者理解を深めるという人生学習を深化させることはできない。そのための叩き台として、先人が途方もない経験と知識の集積を、独自の感性をもって表現した文学や映画ほど、相応しいものはない。そういう意味で文学とリベラル・アーツは、まさに実学なのである。

 文学やリベラル・アーツをオファーする立場の大学の教員も、象牙の塔で専門化に走るのではなく、そのような社会に発信する実学的視点を持って、研究と教育に取り組むべきであろう。そのようなものとして「役に立つ」文学や映画の研究と教育のできる環境は、全入時代の今の大学に、何よりも必要なものなのではないだろうか。

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