2009年7月16日木曜日

ドアにぶつかりつづけるハエ



『夏の夜の夢』の決定版舞台といえば、あまりにも有名なのが1971年のピーター・ブルック演出のもの。どこかにこの舞台を録画したものがないかと思っているのだが、今のところ見つからず、未見なので何ともいえないけれども、どの映画を見ても決定版という感じのものはなくて、ブルックの舞台がいかにエポック・メーキングだったのかということは、想像がつく。

これについては改めてくわしく論じてみたいが、とにかく頭にひっかかってしょうがないのが、彼がヒポリタとティターニア、テーセウスとオべロンの役を同じ役者で演出してダブル・ヴィジョンの世界を創り出したそのアイディアがどこから出てきたか、という松岡和子氏の質問に答えた、インタビューの一節(『すべての季節のシェイクスピア』)。


――どんな風にこのアイディアが浮かんできたか――いつも答えるのに苦労する問題 です。と言うのは、どんなアイディアであれロジカルなプロセスの結果ではないから です。まず言えるのは、私はある方向に向けて一所懸命あれこれやってみる。それ は、基礎になる下地作りとして絶対に必要なことなのです。

  たとえば、今、夜の真っ暗な部屋に居るところを想像してみて下さい。そして、ドア を見つけなくてはならないという状況。なにしろ墨を流したような闇だから、いきな りこっちへ行って『あ、ここがドアだ!』というわけにはいかない。

  (と、ここでブルックはやおら椅子から立ち上がり、窓辺へ行く。窓だの壁だのを押 しながら――)

  ここを押してみる。こっちを押してみる。ちょうど夏場のハエみたいなものです。何 時間も体当りして、ハエは馬鹿だからね。しかし、ここを押して、こっちを押して、 こっちも、こっちも…とやっていると、突然、ドアが見つかる。こういうことは全て の芸術作品に起こるものです。そこで、これが私のアイディアだ、こっちへ行けばい いんだ、となる。押し続ける、答えはそこにある。だが、どこも押さずにじっと椅子 に坐ったきりでは駄目なのです。

  (ブルックはそう言って、微笑みながらまた腰を下ろした)

  だから、いいアイディアというものはリハーサルの間に浮かんでくるのです。あなた や、彼女や、私から浮かんでくるのではない。みんなで疑問を出し合う。ただし、肝 腎なのは頭を使うということです。」

 ブルックにして馬鹿なハエに自分をなぞらえるとは、とつい思ってしまうが、じつはそのように際限なく体当たりできることこそ、才能の証である。もっとも、頭をフルに使いつつ体当たりをするわけで、足に縄をつけずにバンジー・ジャンプをするわけではない。翻って我が身を省みれば、頭でばかりああでもない、こうでもない、と考えていて、なかなか体当たりもできないことが多い。そうかと思えば、急に体当たりして討ち死に、なんてこともよくあるが。

 それにしても、いいアイディアは「私」だけから浮かんでくるのではない、というのは、身につまされる話である。先日ドイツ語のY先生が、ひとりでコツコツ研究していてもダメで、学生にいろいろ工夫して教えてみたり、人と話したりしていく相互作用の中でやかないとダメだ、というお話をされていた。しごく当たり前のことなのだが、自分が刺激的な研究環境というものを創っていけているのかというと、全く足りていない。

 そういう環境を自分のまわりに創るためにも、ハエのように馬鹿になって、あちこちにぶつかってみるしか、ないんですよね。

0 件のコメント:

コメントを投稿