2016年11月16日水曜日
ベストセラー GENIUS
しかしチョイ役とはいえ、ガイ・ピアースがフィッツジェラルドを演じているのが、フィッツジェラルドが文学的故郷の一つである私にとっては、垂涎もの。ここでのガイ・ピアースの役どころは、『ミッドナイト・イン・パリ』の華やかなフィッツジェラルドではなく、本が売れず、何も書けず、妻ゼルダは精神病で、苦悩しながらも何とか希望を繋いで生きている、ナーヴァスなフィッツジェラルドである。私としては、ウルフよりこちらの方に心惹かれる。1920年代のニューヨークの街並みに立つ白いビルディングの横に書かれた、SCRIBNER'S SONSの文字に胸がキュンとするのは、私だけではないはずだ。
ニューヨークが舞台のアメリカ人の話であるのに、メインの俳優がコリン・ファースであるところも嬉しい。マックスウェル・パーキンスはニュー・イングランド気質ほぼ=イギリス気質であり、感情を表に出さず、まさにstill water runs deepというタイプで、コリン・ファースにとっては、いつもの役柄なのだが、やはり美しい。対するトマス・ウルフは、アメリカン・イノセンスの代表なのだが、これもまたイギリス人俳優のジュード・ロウが演じている。アクセントは頑張ってアメリカンに変えているが、こちらも素晴らしくハマりである。アメリカン・ビジネスマンではなく、アメリカン・イノセンスだから、ジュード・ロウでいいのだ。この父子カップルを、コリンとジュードが演じているのが、抑制の両側にあるイギリス性の二面性を表しているようだ。
マックスウェル・パーキンスの伝記を読んだプロデューサー?がこの本の映画化を考えてから映画が実現するまで、何と17年もかかっているという。コリンは早い段階で脚本を読んでおり、長年この役を演じたいと思っていたそうだ。そういえばトマス・ウルフのパートナーの役はニコル・キッドマンが演っているのだが、それは彼女が実際に、芸術家のパトロン?として苦労しているからであるらしい。ニコル・キッドマンといえば、『リリーのすべて』の映画化を熱望したのも彼女である。結局リリーはエディー・レッドメインが演じることになったが、『リリーのすべて』の映画化までにも、同じように長い年月がかかっている。数多の困難を経ながら見事に実現されたこれらの映画たちに、惜しみない讃嘆の念を捧げたい。
2016年10月21日金曜日
キャリントン
エマ・トンプソンのキャリントンはもちろんいいのだが、しかし圧倒的にいいのは、やはりリットンである。映画の始まりは1915年で、リットンは戦争忌避者として名乗りを上げて、いきなり裁判にかかる。声高に、攻撃的に主張しているのではなく、あくまでも飄々とかわしているところが、可愛らしい。そう、ヤギのような髭をたたえたおじさんなのだが、とにかく可愛いのである。終盤で、若いオックスフォードの大学生の恋人(リットンはゲイである)に入れ込みすぎて振られて、静かに泣いているところもあった。書くことが好きな作家なんているのかな、僕には苦痛でしかないよ、と言うところもある。ヴァージニア・ウルフに求婚したんだ、とキャリントンに打ち明け、彼女は承諾したの、とキャリントンが聞くと、そう、だから大変だったんだ、とボソッと言う。そう、いつも何かボソっと言うのだ。その知性的な慎みの言葉が、心に刺さる。
でも君には求婚したいな、と彼はキャリントンに言う。結局結婚はせず、死ぬ前に、僕は君を愛している、なぜ結婚しなかったのだろう、と言うのが、遺言のようになっていた。出会って惹かれあってから一緒に暮らしていた二人だが、リットンが女性の肉体に反応しないため、お互いの性向を満たす相手が入れ替わり立ち代り現れて、三人や四人で同居生活を送る。そこに例えば不倫、と言うような言葉は何か似つかわしくない。それは彼らが真摯に築いた生活だった。
リットンは作家であり、キャリントンは画家である。リットンは本を出版して成功したが、キャリントンは評価を得ていながら、個展の誘いなどは断っていた。彼女に取っては絵を描くことは精神の営みであり、世俗に名を売るといったことには関心がなかったのである。
その代わりにこの映画にあるもの、それはセックスであるといってもいい。わざとそう言ったが、もちろんそれは愛ということだ。ボーイッシュなキャリントンを見たリットンは少年だと思い、彼女を見初める。女性であるとわかっても、彼女の魅力的な耳にキスをする。彼女はそれを許さないが、彼の寝顔を見て好きになってしまう。その時彼女が付き合っていた男と、すでに28歳であったにもかかわらず、彼女はどうしてもセックスしたくない。
それからまた別の男レイフが現れて、三人の共同生活を始め、レイフはやがてキャリントンに結婚を迫る。レイフとキャリントンは結婚するが、結局キャリントンはレイフの友人ジェラルドと、レイフも別の女性と、情事に陥る。ジェラルドはスペインに行ってしまい、キャリントンはリットンを見捨てられずに留まる。本当に愛していたのはリットンだけだが、彼がゲイであったために、他の男と肉体的な関係を結ぶ、という自由で緩やかな愛の形だったようだ。最後の男ジョージは船員で、知性も芸術性もない男だったが、キャリントンは性的にもっとも満たされた。
やがてリットンは病死し、キャリントンは猟銃で後追い自殺をする。側から見れば数奇な同居生活だったのかもしれない。しかしキャリントンは、私たちはこの上なく幸せだった、と言う。それは彼らにとって、人生を、愛を誠実に追求した、魂にもっとも近い愛の形の、模索と実践だったのだ。
2016年10月18日火曜日
6才のボクが、大人になるまで リチャード・リンクレイター監督
それもそのはず、例えば『フォレスト・ガンプ』のように、子供の時の話は子役がやり、それが不自然でない時期になると大人役(ガンプならトム・ハンクス)のメイン俳優がやり、月日の流れを見せるために違うヘアスタイルや服装にしている、というのとは、全く違う。本当に月日が経っているからだ。12年間が166分に詰め込まれているから、単純計算すれば1年分は14分にしかならない。だから主人公(エラー・コルトレーン)の顔も、主人公の姉(じつは監督の娘、ローレライ・リンクレイター)の顔も、ついさっき見た顔と全然違うのである。
それでいてというか、だからというか、エピソードの新鮮なつながりが、見ていて全く飽きない。それはドラマティックに仕込まれた物語ではなく、極めて日常的なエピソードの積み重ねであるにもかかわらず、そしてそれゆえに、とてもフレッシュで、そのフレッシュさは、顔や髪型やその色やネイルの色などが目まぐるしく変わることに、呼応しているのである。つまり、わざと変えているのではなく、自然に変わっている、ルックスにだ。だからとても自然で、とても心地よく、わざとらしいところが、全くない。
しかし、そのフレッシュさの依って来るところは、単にリアルな日常を撮ったから、なのではない。この映画はドキュメンタリーではない。物語である。監督は、子供時代の映画を撮ろうと思ったのだ、と言っている。そうは言っていないけれど、もちろん自分の、である。舞台になっているオースティンは、監督の出身地だ。父親が母親と離婚して別の女性と再婚したのも、離婚した母親が社会人入学で大学に入って心理学を勉強したのも、リンクレイター自身の両親と同じだ。
しかしリンクレイターは、自分の話をベースにしながら、それを12年にわたって演じてくれる俳優たちに、前回撮ってから今回までの間に生起した人生の話も織り交ぜて脚本を書いたので、撮影の前日くらいにしかそれは出来上がらなかった。親も素晴らしいのだがコルトレーンが素晴らしく、ちょっとフェミニンで繊細で芸術家気質で、写真に熱中して、暗室に篭って教師に説教されたりするところがリアルなのは、多分監督本人のエピソードで、コルトレーンが監督とシンクロするキャラクターだからなのだろう。
これは物語なのだけれど、まさに彼らの人生の物語であり、つねにフレッシュなその魅力が、この映画には12年分詰まっている。ドキュメンタリーでもない、お決まりのストーリーでもない、12年も普通は撮り続けることはできないという意味で、映画を超えているのだが、まさにこれこそは映画なのである。
2016年10月15日土曜日
海街diary 是枝裕和
是枝は自分で、気がつくと見捨てられた子供たちばかり撮っている、と書いている。原作の吉田秋生は、映画を見ると確かにそうなっている、という書き方をしているので、原作は必ずしもそうではないらしい。しかし是枝は原作に惚れ込んでおり、原作の味わいを壊さないように作ったと言っていたはずである。家の縁側のショットが、『クーリンチェ殺人事件』のエドワード・ヤンだった。クーリンチェも、だらしない親の世代に対して、子供たちが自分たちの世界を作り、そして破滅していく話である。
この話は、綾瀬はるかと広瀬すずが、しっかり者の主人公なのだが、それは実は子供時代を奪われていたからだという。親はとにかく究極のダメ人間ばかり。子供を育てるという責任をみな放棄して、自分のやりたいこと(というか次の男)の方へ行ってしまう。そして上の子供は親代わりとしてがんばる。
しかし綾瀬はるかは、じつは自分の親と同じことをしている。つまり既婚の男と恋愛関係にあるのである。それで広瀬すずが、自分の母親のことを恥じて、結婚している男の人を好きになるなんて良くないですよね、と綾瀬はるかに言ったとき、彼女が見せる曇った表情が、素晴らしい。ダメな両親と同じことをしている自分にダメ出しをする彼女の表情が、美しく現されている。そこで彼女は、人生のどうしようもなさを知る。親を許しはしないまでも、彼らに対する理解の風が、一瞬吹き抜ける、といったところか。
是枝の映画には、家族の喪失が、家族の再生(作り直し)によってしか補えない、子供時代の記憶は子供を育てることでその生き直しをすることによってしか補えない、といったテーマが、一貫している。あるいは、失われた人生のやり直し、といったようなこと。それは『ワンダフルライフ』で、香川京子との結婚生活を戦死によって阻まれたARATAが、死後五十年くらいの歳月を、死者を送り出す場所に留まった末に冥界でやり直していたのと、同じである。
是枝の映画に出てくる、優しいけれどもダメな父親というのは、恐らくは、とりもなおさず彼自身の父親(または彼らの世代)なのであって、そうすると彼が描いている置いてきぼりにされた子供たちというのは、自分(たち)のことだということになる。彼の映画は、強い父親に守られずに育ったために、ダメ男風(実際には芸術家として大成している)な自分の大変な人生を肯定するための映画だ、ということにもなる。
2016年10月2日日曜日
カンバーバッチ 『ホーキング』

今授業でホーキングばっかりやっている。エディー・レッドメインの『博士と彼女のセオリー』と、別のクラスでカンバーバッチの『ホーキング』。『博士と彼女のセオリー』は文句なく面白く、3度くらいは泣いたが、カンバーバッチの方は、それに比べると地味な始まりだ。しかし最後まで見ると、別の面白さがあって、これはこれで感動的だった。
『博士と彼女のセオリー』は、最初の妻ジェーンの回想録を基にしているので、基本的には、二人の物語になっている。それで映画としては見やすいわけだが、『ホーキング』は、彼が自分のテーマすなわち自分の人生を見つけるための道のりを描いた映画になっている。そのテーマ/人生に、ジェーンも重要な存在として入ってくる、という感じだ。
当然ながら、彼の人生/テーマの中軸は、彼の研究対象であるビッグバンであり、映画はそれがよくわかる作りになっている。いや、実際は、何の予備知識もなく1度見て彼の理論が一般的理解としてわかるわけではない。しかしあくまでも一般的理解としてだが、その後に映画ホーキングについての記事を読むくらいで、なるほどと思えるように、映画はできている。
彼が博士課程の学生だった当時、宇宙論の分野で支配的なのは、定常性理論だった。宇宙は常にそこにあり、あり続けるだろう、というものだ。つまり宇宙には始まりも終わりもない。ホーキングはこの考えが何か違うと感じ、その主導者であるホイルの論文を入手して、計算の誤りを発見し、彼の発表の際にそれを指摘した。この時指導教官に、人の誤りを探していないで自分で独創的な研究をしろ、とたしなめられる場面は、彼のモティベーションを促した出来事として、映画において印象的なところのひとつだ。
映画ではその後に、ロンドン大のロジャー・ペンローズとの出会いが来る。ペンローズは、星がその生命を終えると、その崩壊は無限に続き、無限に濃密なものとなって、それがブラックホールを形成する、と考えた。ブラックホールの中心にあるものが、特異点だ。ホーキングはペンローズの理論を逆向きに考えることを思いついた。星の始まりはブラックホールだった、というものだ。何かが無に崩壊していくのではなく、無が何かに爆発する、というように。そしてひとつの星ではなく宇宙全体にこの理論を適用したら?ここに彼は博士論文のテーマを見出した。宇宙の始まりはあり、それはビッグバン、大きな爆発だったのだ、と。時間と空間は、ビッグバンによって生まれたのだ。
そのような大爆発があれば、熱放射があるはずだが、ないではないか、とホーキングは反論された。これを計測で証明したのが、アメリカのペンジアス(ドイツ生まれのユダヤ人)とウィルソンだ。その彼らがノーベル賞を受賞して、インタビューを受けている様子が、映画の中で断続的に挿入される。最初見ていると、これは一体誰なのか、と思うのだが、最後になって、それが生きてくる。彼らによってホーキングの理論の物質的な裏付けが得られたからだ。
最後の場面で指導教官がホーキングの父親に、彼の業績を説明しているところがある。彼はアインシュタインが予測していたらしいが追求するのをやめたこと、つまり宇宙はいつもそこにあったのではなくて始まりがあったということを証明した、アインシュタインを美しくした(He's made Einstein beautiful)のだ、と。このアインシュタインを美しくした、という説明に、心を掴まれる。
スティーヴ・ジョブズの家にも、アインシュタインの大きなポスターが貼られていた。アインシュタインといえば、すべての、美しくはあまりない社会の抑圧に屈せず、美しい理論、美しい世界を追求する人々のシンボル的な存在だ。学校の成績だとか、世間のうるさい規則だとか、そういうものより自分の思った道を行く。ALSを発症したという身体的不運も重なって、そして離婚はしたものの、ジェーンという素晴らしい理解者・同伴者を見つけて、彼は自分の理論に邁進した。それは、科学で業績を上げようという世俗の欲望を超えた、美しいものを見上げてそれに向かって人生を進めていく、彼の精神を表している。もちろん実際にずば抜けた知力も伴っていたわけだが。「足元を見るのではなく星を見上げること」「絶対に仕事をあきらめないこと」等々の、ホーキング語録は、このような彼の人間性を語っている。
エディー・レッドメインや、カンバーバッチといった英国俳優は、こうした意味でホーキングの精神的同類だ。だから彼らはホーキングのようなお茶目な天才を演じてハマり、深い感動を与えることができる。これについてはまた別に書く必要がありそうです。
2013年7月29日月曜日
小津安二郎『秋日和』@シネ・ヌーヴォ
2013年6月17日月曜日
チャップリンの『ライムライト』
グルーチョならば、あのマシンガントークがあった方が、マイムだけより面白いのだけれど、チャップリンは、芸としてのマシンガン・トークをしない。そう、『ライムライト』でヒロインのテリー(クレア・ブルーム)と、作曲家のネヴィルは、お互い自分たちは内気だから、と言っていた。「内気な」チャーリーには、『黄金狂時代』で喋るの得意じゃないから代わりに、と言って披露したロールパンのダンスが、とてもとてもよく似合う。
2012年6月17日日曜日
ティム・バートンのアリス・イン・ワンダーランドとディズニー帝国の陰謀
2012年4月6日金曜日
タランティーノ的『カサブランカ』
イルザ(イングリッド・バーグマン)がピアニストのサム(ドーリー・ウィルソン)の方へつつとすり寄り、「あれをまた弾いて。(Play it again, Sam. Play it.)」と言う有名な場面になった。スリー・ポイント・ライティングに照らされて、眼をうるうるさせたバーグマンのアップが、画面いっぱいに映し出される。
すると、不思議なことが起こった。学生が、ゲラゲラ笑っているのである。そう言われてみると(笑われてみると)、この場面は確かにほとんどマンガだ。テレビ・ロードショー的な意味でかも知れないが、映画史上に名だたる傑作の美しい名場面も、彼らの目には、眼の中に星が入った少女マンガなのだ。もちろんわたしも、この場面に感動して見ていたわけではなく、むしろ、「おお、スター・システム全盛期のこの、ボガードやバーグマンを映しだす画面はどうだ。分析に値しそう」などと思いながら見ているのだけれど、ここではっきり笑ってしまう、という彼らの感性には、ちょっと驚いたし、むしろ感心するところもあった。彼らには『カサブランカ』が、すでに、タランティーノやシンプソンズみたいに見えるらしい。あ、パロディということです。
ハリウッド・スターシステム全盛時代の撮り方が彼らの感性にどう見えるのか、そのことによって当時と現代の違いが、いろいろ分析できそうである。
2011年2月4日金曜日
ろくでなし啄木@シアターBRAVA!~「啄木の二面性」とは?
2011年1月21日金曜日
柄谷行人『世界史の構造』講演(トークイベント)メモ@近畿大学文芸学部
(『世界共和国へ』を書いていたときにはよくわかっていなかったので、あの中の記述は間違っている…)
2011年1月17日月曜日
時計じかけのオレンジ@赤坂ACTシアター[舞台・演劇]
2011年1月16日日曜日
エリックを探して
イギリス映画の快楽は、マーケティング調査に基づいて作られる、CGを駆使した3Dの商業的映像から限りなく遠く離れた、そういうささやかなローカリズムの勝利に存している。
2010年3月28日日曜日
秩序ある混沌~千住博・大江健三郎・ニーチェ
この話(というよりその話をする千住氏)は、わたしに「現場」的な軽い興奮をもたらした。それは渡邉ひとみによってインタビューされる大江健三郎のアップが、テレビ画面に映ったときに覚えた興奮を、想い出させた。その大江氏は書斎に恩師渡辺一夫氏の写真を飾っていたが、それはカメラ越しにもすごい迫力だったから、外国文学者といえどもそこまで極めれば、やはり現場的オーラを放つのだろう。僕は仏文に行くと決めたのだから英語は自分で勉強してやろうと思って、学生時代自分で英詩なんかを一生懸命読んだ、今も1日20ページなら20ページと決めて、翻訳と付き合わせながら原書を読む、それから自分の作品を書く、と言うのを聞いて、イギリスを専攻してしまったからといって、大好きなフランス語の本を読んでいけないという法はないのだ、などと勝手な得心をしたりしたのであったが、そうした言葉の意味内容には取り立てて驚異的なものはない――大江健三郎が原書を読んでいることは、改めて聞くまでもなく誰でもが知っている――にもかかわらず、そう淡々と語る大江のアップを実際に見るという経験は、少なからぬ戦慄をわたしに与えた。その余波は未だにつづいているようだ。話がずぶずぶと大江健三郎の方に行ってしまったが(それはやはり、当然のことながら、大江がただ普通に話しているだけで「思わず目を止める」存在であるからだが)、とにかくこれらの人々は、作品はもちろんのこと、話しぶりから既に「秩序ある混沌」の結晶のようだった。内部に抱えこんだ、常人には及びもつかない奥深い混沌こそが、超一流の作品のエネルギーであるのだが、それを秩序ある芸術形式に表象してはじめて、人の心を掴む作品が成立する。彼らのまさに静かで端正な話しぶり(秩序)には、それを現場で積み重ねてきた気迫のようなもの(混沌)が、充ちていたのだ。
2010年2月10日水曜日
何かが生起している場所にきちんと己の身体を運ぶこと(石光泰夫 -『新・知の技法』)
2010年1月31日日曜日
こなごなな社会に拮抗するためのルプレザンタシオン ――蒲池美鶴『シェイクスピアのアナモルフォーズ』(研究社、1999年)、古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』(講談社、2007年)
2009年12月25日金曜日
Merry Christmas 2009★新丸ビル「たる善」


2009年12月20日日曜日
ロメオ・カステルッチの神曲・煉獄篇と天国篇
そうこうしているうちに中に入ると、黒塗りのボックスになっている空間の中心部分が、白く塗ってある。一瞬ぽかんとしていると、奥の方に置いてある1m立方くらいのライトの方から人がぞろぞろ出てくるので、あ、ここに入るのか、と解る。ライトは天国への導きの光だったのである。「天国」の中は、やはり黒塗りで、前方では水がびしゃびしゃと流れ落ちている。恐る恐るどんどん歩いて行ったら、効果だけではなく本当に水に濡れるので、それより前に進むことはできない。じめじめした黒塗りの空間なのに、神社仏閣にいるような感覚に襲われる。水の流れ滴る上方では、骨ばった裸体が、地獄で蜘蛛の糸を探ってでもいるような、喘ぎ苦しむようなパフォーマンスを、ひたすらに続けている。一代で会社を立ち上げて成長させたある身近なやり手の経営者が、上へ上へと登りつづけて、登った先には何もなかった、と言っていたのだが、それもこういうイメージなんだろう。地獄を経めぐり、煉獄で浄罪される、その旅の過程こそが重要なのであって、着いてしまったと思ったときにそこに開けている世界は、空虚である。ユートピアが、どこにもない場所である所以だ。フーコーは、アトピアという言葉を使っている。それでまた、ドゥルーズと伊丹十三が2人とも自宅のアパルトマン/マンションから投身自殺したイメージが、このパフォーマーに重なって視えた。あの2人はダンテ同様、しかしおそらくダンテのように究極の目的地を信じないまま、地獄と煉獄の旅に出たのではなかろうかと。
煉獄篇では、恒常的に自分に暴力を振われながら、その父の罪を赦す息子が成長して、煉獄をのたうちまわる姿に、観ている者も同化して、浄罪のイメジャリーの世界をともに経巡っているような感覚になる。観客もこうして、天国篇へ準備の階段を上っていくのである。三軒茶屋から西巣鴨に場所を変えて、天国に入ってみる。しばらく茫然とそこに立ち尽くした後、我に返って外に出ると、ここのところ家族にも友人にもその薄さと暖かさを絶賛していたヒートテックを着ているのに、急に怖気がしてきて、外気がいやに冷たい。『神曲』を視覚化した芸術家はたくさんいるけれど、彼らの描くイメージは、結局地獄篇が一番選れていることが多い。カステルッチ版も、おそらくそうだろう。天国篇の空間を出たわたしは、あの3匹の犬がカステルッチを襲い、ウォーホルの作品名とともに人々が磔刑の姿で落ちてゆく、地獄篇のイメジャリーの中に、帰りたくなった。
2009年12月16日水曜日
映画『ドレッサー』(1983)

喜劇の題名は一般的名前であり、悲劇の題名は特定の個人の名前であると言ったのは、ベルクソンである。喜劇の題名は例えば『人間嫌い』であり、決して『ハムレット』や『リア王』や『マクベス』にはなり得ない。それは悲劇の主人公が強烈な個性であるのに対し、喜劇の主人公は類型だからである。
それでは『ドレッサー』は、どちらになるのだろう。これはアルバート・フィニー演ずるシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優が、『リア王』の公演をする前後の物語だ。彼は「サー(Sir)」としか呼ばれず、固有名がない。サーは日本でいえば勝新太郎か三船敏郎かという「個性」であるけれども、それはシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優だったらとりあえずこういう性格だろう、という「類型」でもあるからだ。戦時下のイギリス。劇場は次々に爆破され、若い役者はみな徴兵に取られてしまい、舞台化粧に使うコーンスターチの確保も儘ならない。厳しい戦時下であれば人間の魂にとってますます必要でありながら、当然のごとく芸術は抑圧されている戦時下の時代状況が、時代の推移を体現している上2人の娘の裏切りにあって没落してゆくリア王の状況と、重ね合わされている。映画の前半で舞台を席巻しているのは、こうした状況で錯乱状態にある、老齢のサーであると言っていい。
サーのドレッサー(衣装係)であり、楽屋でサーを風呂に入れ、下着を洗濯し、錯乱して台詞を混同するサーにどの芝居か思い出させてやり、と何から何まで細々と面倒を見ているおカマ言葉のノーマン(トム・コートニイ)は、さしずめリア王の道化である。そういえばリア王の道化は、「道化」であって名前がない。舞台の原作を書き、映画化に際しても自ら脚本を担当したロナルド・ハーウッドが、サーをサーとしか呼んでいないのは、このことを現代に反転させた、達意の仕掛けのように思える。あくまでも主役はドレッサーなのだが、ドレッサーにドレッサーというアイデンティティが生じるのは、あくまでもサーがいるからだ。サーがいなければ、ドレッサーという主体が存在できないのは、リア王と道化の関係と同じである。芝居の最初では舞台に出ることすら危ぶまれたサーは、無事に一世一代の名演をし、若い女優をコーデリアに見立てて両腕で抱きかかえた後、呆気なく息を引き取る。最期は思いのほか静かだった。サーが亡くなると、確かに(映画の)舞台は、急にひっそりしてしまう。最期に遺言のように、観客はさることながら、小道具係、照明係にまで感謝の意を表したサーは、ドレッサーには一言の挨拶もなかった。ノーマンはそのことに憤慨しつつ、これから自分がどうして生きていけばいいのか途方に暮れる。芝居=映画はこうして、何だか尻すぼみに終わる。
『ドレッサー』はあたかも、サーという中心を喪ってもまだ生き続けなければならないノーマンの、日常性の悲劇がこれから始まるというところで、終わっているかのようである。悲劇では主人公が死ぬところが最大のクライマックスであるのだが、この劇=映画ではそこからエンドレスなアンチ・クライマックスが始まるのだ。ヤン・コットが『リア王』をベケットの『勝負の終わり』に準えられたのは有名な話だが、『ドレッサー』はそのような現代における悲/喜劇の性質を、絶妙に捉えている。「ドレッサー」という題名の意味は、そこにある。
ちなみに、アメリカのアマゾンでUS版のDVDを買ったら、日本語字幕がついていました(・。・)



















