2016年11月16日水曜日

ベストセラー GENIUS

フィッツジェラルドとヘミングウェイを発掘した、出版社スクリブナーの名編集者、マックスウェル・パーキンズの自伝に基づいた映画。と言っても映画で取り上げられているのは、彼らに比べると今ではあまり知られていない小説家トマス・ウルフとの交流の部分である。

しかしチョイ役とはいえ、ガイ・ピアースがフィッツジェラルドを演じているのが、フィッツジェラルドが文学的故郷の一つである私にとっては、垂涎もの。ここでのガイ・ピアースの役どころは、『ミッドナイト・イン・パリ』の華やかなフィッツジェラルドではなく、本が売れず、何も書けず、妻ゼルダは精神病で、苦悩しながらも何とか希望を繋いで生きている、ナーヴァスなフィッツジェラルドである。私としては、ウルフよりこちらの方に心惹かれる。1920年代のニューヨークの街並みに立つ白いビルディングの横に書かれた、SCRIBNER'S SONSの文字に胸がキュンとするのは、私だけではないはずだ。

ニューヨークが舞台のアメリカ人の話であるのに、メインの俳優がコリン・ファースであるところも嬉しい。マックスウェル・パーキンスはニュー・イングランド気質ほぼ=イギリス気質であり、感情を表に出さず、まさにstill water runs deepというタイプで、コリン・ファースにとっては、いつもの役柄なのだが、やはり美しい。対するトマス・ウルフは、アメリカン・イノセンスの代表なのだが、これもまたイギリス人俳優のジュード・ロウが演じている。アクセントは頑張ってアメリカンに変えているが、こちらも素晴らしくハマりである。アメリカン・ビジネスマンではなく、アメリカン・イノセンスだから、ジュード・ロウでいいのだ。この父子カップルを、コリンとジュードが演じているのが、抑制の両側にあるイギリス性の二面性を表しているようだ。

マックスウェル・パーキンスの伝記を読んだプロデューサー?がこの本の映画化を考えてから映画が実現するまで、何と17年もかかっているという。コリンは早い段階で脚本を読んでおり、長年この役を演じたいと思っていたそうだ。そういえばトマス・ウルフのパートナーの役はニコル・キッドマンが演っているのだが、それは彼女が実際に、芸術家のパトロン?として苦労しているからであるらしい。ニコル・キッドマンといえば、『リリーのすべて』の映画化を熱望したのも彼女である。結局リリーはエディー・レッドメインが演じることになったが、『リリーのすべて』の映画化までにも、同じように長い年月がかかっている。数多の困難を経ながら見事に実現されたこれらの映画たちに、惜しみない讃嘆の念を捧げたい。


2016年10月21日金曜日

キャリントン

『キャリントン』Carrington (1995)。胸を掴まれるような映画だった。それは何よりも、リットン・ストレーチーに胸を掴まれたのだと思う。ジョナサン・プライスは、この演技で1995年のカンヌの男優賞を取っている。映画自体も、審査員特別賞と、脚本賞を取っている。脚本は監督クリストファー・ハンプトンで、原作はリットン・ストレイチーの伝記である。伝記を書いたマイケル・ホルロイドは、ストレイチーの伝記の中に、当時の芸術家たちの人間模様を描いたのだと書いている。この映画が中心にするのは、ストレイチーではなく彼のパートナー、キャリントンである。

エマ・トンプソンのキャリントンはもちろんいいのだが、しかし圧倒的にいいのは、やはりリットンである。映画の始まりは1915年で、リットンは戦争忌避者として名乗りを上げて、いきなり裁判にかかる。声高に、攻撃的に主張しているのではなく、あくまでも飄々とかわしているところが、可愛らしい。そう、ヤギのような髭をたたえたおじさんなのだが、とにかく可愛いのである。終盤で、若いオックスフォードの大学生の恋人(リットンはゲイである)に入れ込みすぎて振られて、静かに泣いているところもあった。書くことが好きな作家なんているのかな、僕には苦痛でしかないよ、と言うところもある。ヴァージニア・ウルフに求婚したんだ、とキャリントンに打ち明け、彼女は承諾したの、とキャリントンが聞くと、そう、だから大変だったんだ、とボソッと言う。そう、いつも何かボソっと言うのだ。その知性的な慎みの言葉が、心に刺さる。

でも君には求婚したいな、と彼はキャリントンに言う。結局結婚はせず、死ぬ前に、僕は君を愛している、なぜ結婚しなかったのだろう、と言うのが、遺言のようになっていた。出会って惹かれあってから一緒に暮らしていた二人だが、リットンが女性の肉体に反応しないため、お互いの性向を満たす相手が入れ替わり立ち代り現れて、三人や四人で同居生活を送る。そこに例えば不倫、と言うような言葉は何か似つかわしくない。それは彼らが真摯に築いた生活だった。

リットンは作家であり、キャリントンは画家である。リットンは本を出版して成功したが、キャリントンは評価を得ていながら、個展の誘いなどは断っていた。彼女に取っては絵を描くことは精神の営みであり、世俗に名を売るといったことには関心がなかったのである。

その代わりにこの映画にあるもの、それはセックスであるといってもいい。わざとそう言ったが、もちろんそれは愛ということだ。ボーイッシュなキャリントンを見たリットンは少年だと思い、彼女を見初める。女性であるとわかっても、彼女の魅力的な耳にキスをする。彼女はそれを許さないが、彼の寝顔を見て好きになってしまう。その時彼女が付き合っていた男と、すでに28歳であったにもかかわらず、彼女はどうしてもセックスしたくない。

それからまた別の男レイフが現れて、三人の共同生活を始め、レイフはやがてキャリントンに結婚を迫る。レイフとキャリントンは結婚するが、結局キャリントンはレイフの友人ジェラルドと、レイフも別の女性と、情事に陥る。ジェラルドはスペインに行ってしまい、キャリントンはリットンを見捨てられずに留まる。本当に愛していたのはリットンだけだが、彼がゲイであったために、他の男と肉体的な関係を結ぶ、という自由で緩やかな愛の形だったようだ。最後の男ジョージは船員で、知性も芸術性もない男だったが、キャリントンは性的にもっとも満たされた。

やがてリットンは病死し、キャリントンは猟銃で後追い自殺をする。側から見れば数奇な同居生活だったのかもしれない。しかしキャリントンは、私たちはこの上なく幸せだった、と言う。それは彼らにとって、人生を、愛を誠実に追求した、魂にもっとも近い愛の形の、模索と実践だったのだ。

2016年10月18日火曜日

6才のボクが、大人になるまで リチャード・リンクレイター監督

『6才のボクが、大人になるまで』(2014)。166分があっという間な、素晴らしく愛おしい映画。6才の子供が18才になって大学に入学するまでを、12年間かけて追っている。子供がどんどん大きくなっていくのが、断続的につながっていて、前のシーンと後のシーンとで、顔が全く違うように変わっているのが、とてもリアルだ。

それもそのはず、例えば『フォレスト・ガンプ』のように、子供の時の話は子役がやり、それが不自然でない時期になると大人役(ガンプならトム・ハンクス)のメイン俳優がやり、月日の流れを見せるために違うヘアスタイルや服装にしている、というのとは、全く違う。本当に月日が経っているからだ。12年間が166分に詰め込まれているから、単純計算すれば1年分は14分にしかならない。だから主人公(エラー・コルトレーン)の顔も、主人公の姉(じつは監督の娘、ローレライ・リンクレイター)の顔も、ついさっき見た顔と全然違うのである。

それでいてというか、だからというか、エピソードの新鮮なつながりが、見ていて全く飽きない。それはドラマティックに仕込まれた物語ではなく、極めて日常的なエピソードの積み重ねであるにもかかわらず、そしてそれゆえに、とてもフレッシュで、そのフレッシュさは、顔や髪型やその色やネイルの色などが目まぐるしく変わることに、呼応しているのである。つまり、わざと変えているのではなく、自然に変わっている、ルックスにだ。だからとても自然で、とても心地よく、わざとらしいところが、全くない。

しかし、そのフレッシュさの依って来るところは、単にリアルな日常を撮ったから、なのではない。この映画はドキュメンタリーではない。物語である。監督は、子供時代の映画を撮ろうと思ったのだ、と言っている。そうは言っていないけれど、もちろん自分の、である。舞台になっているオースティンは、監督の出身地だ。父親が母親と離婚して別の女性と再婚したのも、離婚した母親が社会人入学で大学に入って心理学を勉強したのも、リンクレイター自身の両親と同じだ。

しかしリンクレイターは、自分の話をベースにしながら、それを12年にわたって演じてくれる俳優たちに、前回撮ってから今回までの間に生起した人生の話も織り交ぜて脚本を書いたので、撮影の前日くらいにしかそれは出来上がらなかった。親も素晴らしいのだがコルトレーンが素晴らしく、ちょっとフェミニンで繊細で芸術家気質で、写真に熱中して、暗室に篭って教師に説教されたりするところがリアルなのは、多分監督本人のエピソードで、コルトレーンが監督とシンクロするキャラクターだからなのだろう。

これは物語なのだけれど、まさに彼らの人生の物語であり、つねにフレッシュなその魅力が、この映画には12年分詰まっている。ドキュメンタリーでもない、お決まりのストーリーでもない、12年も普通は撮り続けることはできないという意味で、映画を超えているのだが、まさにこれこそは映画なのである。

2016年10月15日土曜日

海街diary 是枝裕和

 
是枝は自分で、気がつくと見捨てられた子供たちばかり撮っている、と書いている。原作の吉田秋生は、映画を見ると確かにそうなっている、という書き方をしているので、原作は必ずしもそうではないらしい。しかし是枝は原作に惚れ込んでおり、原作の味わいを壊さないように作ったと言っていたはずである。家の縁側のショットが、『クーリンチェ殺人事件』のエドワード・ヤンだった。クーリンチェも、だらしない親の世代に対して、子供たちが自分たちの世界を作り、そして破滅していく話である。

 この話は、綾瀬はるかと広瀬すずが、しっかり者の主人公なのだが、それは実は子供時代を奪われていたからだという。親はとにかく究極のダメ人間ばかり。子供を育てるという責任をみな放棄して、自分のやりたいこと(というか次の男)の方へ行ってしまう。そして上の子供は親代わりとしてがんばる。

 しかし綾瀬はるかは、じつは自分の親と同じことをしている。つまり既婚の男と恋愛関係にあるのである。それで広瀬すずが、自分の母親のことを恥じて、結婚している男の人を好きになるなんて良くないですよね、と綾瀬はるかに言ったとき、彼女が見せる曇った表情が、素晴らしい。ダメな両親と同じことをしている自分にダメ出しをする彼女の表情が、美しく現されている。そこで彼女は、人生のどうしようもなさを知る。親を許しはしないまでも、彼らに対する理解の風が、一瞬吹き抜ける、といったところか。

 是枝の映画には、家族の喪失が、家族の再生(作り直し)によってしか補えない、子供時代の記憶は子供を育てることでその生き直しをすることによってしか補えない、といったテーマが、一貫している。あるいは、失われた人生のやり直し、といったようなこと。それは『ワンダフルライフ』で、香川京子との結婚生活を戦死によって阻まれたARATAが、死後五十年くらいの歳月を、死者を送り出す場所に留まった末に冥界でやり直していたのと、同じである。

 是枝の映画に出てくる、優しいけれどもダメな父親というのは、恐らくは、とりもなおさず彼自身の父親(または彼らの世代)なのであって、そうすると彼が描いている置いてきぼりにされた子供たちというのは、自分(たち)のことだということになる。彼の映画は、強い父親に守られずに育ったために、ダメ男風(実際には芸術家として大成している)な自分の大変な人生を肯定するための映画だ、ということにもなる。

2016年10月2日日曜日

カンバーバッチ 『ホーキング』

 
今授業でホーキングばっかりやっている。エディー・レッドメインの『博士と彼女のセオリー』と、別のクラスでカンバーバッチの『ホーキング』。『博士と彼女のセオリー』は文句なく面白く、3度くらいは泣いたが、カンバーバッチの方は、それに比べると地味な始まりだ。しかし最後まで見ると、別の面白さがあって、これはこれで感動的だった。

 『博士と彼女のセオリー』は、最初の妻ジェーンの回想録を基にしているので、基本的には、二人の物語になっている。それで映画としては見やすいわけだが、『ホーキング』は、彼が自分のテーマすなわち自分の人生を見つけるための道のりを描いた映画になっている。そのテーマ/人生に、ジェーンも重要な存在として入ってくる、という感じだ。

 当然ながら、彼の人生/テーマの中軸は、彼の研究対象であるビッグバンであり、映画はそれがよくわかる作りになっている。いや、実際は、何の予備知識もなく1度見て彼の理論が一般的理解としてわかるわけではない。しかしあくまでも一般的理解としてだが、その後に映画ホーキングについての記事を読むくらいで、なるほどと思えるように、映画はできている。

 彼が博士課程の学生だった当時、宇宙論の分野で支配的なのは、定常性理論だった。宇宙は常にそこにあり、あり続けるだろう、というものだ。つまり宇宙には始まりも終わりもない。ホーキングはこの考えが何か違うと感じ、その主導者であるホイルの論文を入手して、計算の誤りを発見し、彼の発表の際にそれを指摘した。この時指導教官に、人の誤りを探していないで自分で独創的な研究をしろ、とたしなめられる場面は、彼のモティベーションを促した出来事として、映画において印象的なところのひとつだ。

 映画ではその後に、ロンドン大のロジャー・ペンローズとの出会いが来る。ペンローズは、星がその生命を終えると、その崩壊は無限に続き、無限に濃密なものとなって、それがブラックホールを形成する、と考えた。ブラックホールの中心にあるものが、特異点だ。ホーキングはペンローズの理論を逆向きに考えることを思いついた。星の始まりはブラックホールだった、というものだ。何かが無に崩壊していくのではなく、無が何かに爆発する、というように。そしてひとつの星ではなく宇宙全体にこの理論を適用したら?ここに彼は博士論文のテーマを見出した。宇宙の始まりはあり、それはビッグバン、大きな爆発だったのだ、と。時間と空間は、ビッグバンによって生まれたのだ。

 そのような大爆発があれば、熱放射があるはずだが、ないではないか、とホーキングは反論された。これを計測で証明したのが、アメリカのペンジアス(ドイツ生まれのユダヤ人)とウィルソンだ。その彼らがノーベル賞を受賞して、インタビューを受けている様子が、映画の中で断続的に挿入される。最初見ていると、これは一体誰なのか、と思うのだが、最後になって、それが生きてくる。彼らによってホーキングの理論の物質的な裏付けが得られたからだ。

 最後の場面で指導教官がホーキングの父親に、彼の業績を説明しているところがある。彼はアインシュタインが予測していたらしいが追求するのをやめたこと、つまり宇宙はいつもそこにあったのではなくて始まりがあったということを証明した、アインシュタインを美しくした(He's made Einstein beautiful)のだ、と。このアインシュタインを美しくした、という説明に、心を掴まれる。

 スティーヴ・ジョブズの家にも、アインシュタインの大きなポスターが貼られていた。アインシュタインといえば、すべての、美しくはあまりない社会の抑圧に屈せず、美しい理論、美しい世界を追求する人々のシンボル的な存在だ。学校の成績だとか、世間のうるさい規則だとか、そういうものより自分の思った道を行く。ALSを発症したという身体的不運も重なって、そして離婚はしたものの、ジェーンという素晴らしい理解者・同伴者を見つけて、彼は自分の理論に邁進した。それは、科学で業績を上げようという世俗の欲望を超えた、美しいものを見上げてそれに向かって人生を進めていく、彼の精神を表している。もちろん実際にずば抜けた知力も伴っていたわけだが。「足元を見るのではなく星を見上げること」「絶対に仕事をあきらめないこと」等々の、ホーキング語録は、このような彼の人間性を語っている。

 エディー・レッドメインや、カンバーバッチといった英国俳優は、こうした意味でホーキングの精神的同類だ。だから彼らはホーキングのようなお茶目な天才を演じてハマり、深い感動を与えることができる。これについてはまた別に書く必要がありそうです。
 
 
 
 
 
 
 

2013年7月29日月曜日

小津安二郎『秋日和』@シネ・ヌーヴォ


 『秋日和』で、ダブル縁談騒動が一件落着し、中村伸郎と佐分利信と北竜二が酒を酌み交わしている席で、中村と佐分利は、いやあ、面白かった、面白かった、と連発する。この「面白い」騒ぎは紛れもなく、『夏の夜の夢』の森の中の騒動に相当するものだ。差し詰めこの「高等猥談」トリオは、道化の3人組ということになるのだろうか。騒ぎを仕掛けるのだから、佐分利がオベロンで中村がパック、というところか。最終的に面白くもなく振り出しに戻る北竜二が、ボトムなのかもしれない。

  それにしても小津の映画は、言うまでもないけれど、ファミリーロマンスである。司葉子の恋愛の対象は、佐田啓二ではなく、原節子なのだ。再婚なんて穢いわ、と原節子に言う司葉子は、当然のことながら母の「浮気」、「移り気」に嫉妬している。ガートルードの再婚に激昂しているハムレットそのままである。そういう意味では、オフェーリアと佐田啓二は同様に、ただの囮のような存在である。同性愛者がカモフラージュに結婚する相手のようなものだ。同性愛ではなく(そうなのかもしれないと思う)、マザコンなのだけれど。

  これをウェットとドライと形容するのも、取り繕いである。司葉子はウェットであるというのはマザコンのことであり、岡田茉利子がドライであるというのは、リアリスティックで大人であるということである。マザコンは、大人になりたくないファンタジー(polymorphous of perverse)の世界における恋愛様式である。小津の世界では、大人になることをドライと形容するらしい。もっとも確かに、岡田茉利子は強すぎて、リアルな大人すぎるきらいはある。父の後妻である現母親に対して気を使っているように見えないとすればそれは、自分の「演技」がうまいからだと言っている。すったもんだの騒ぎは、司葉子には通過儀礼として作用するように物語は作られているが、実際の司葉子がどれだけ人格の変容を被ったかということはまったく描かれない(原節子に対して、穢いわ、と言ったことを、もういいのよ、とは言うが)。原節子はあくまでも、「子供」のままに留められる。だから死んだ夫の写真すらもない、死んだ夫の存在などない。再婚などするわけもない。笠智衆にも、配偶者がいないようだ。

  岡田茉利子の母親が義理であるというのは、『母を恋はずや』の兄の場合と同じである。この場合は主人公は、実の息子である弟ではなく、養子である兄の方である。『東京の女』は、母親のような存在を姉が演じている。両親はいないのだ。この姉弟はあたかも(プラトニックな)近親相姦のような関係にあるので、姉が自分を一人前にするために夜の女をやっていることに弟は耐えられず、自殺する。この、自殺というのが、学生の書く小説みたいで、取ってつけたようで安直であった。急場しのぎで作った映画だということなのだが。

 『お早よう』の反抗的でやんちゃな息子は、オレのことなんだ、と内田樹は言っていたが、それは小津の自画像でもあるのだろう。佐田啓二が、親は大事にしなきゃいけないな、つまらないことで怒ったときの母親の顔が忘れられない、と言っていたのも、自分のことなのだろう。それを言うなら、例えば『非常線の女』の田中絹代が、最初は恋人を取られると思った水久保澄子に会って自分も感化され、あくまでも恋人と自分を更生させようとする、というのも、与太者であった過去の自分を更生させようとする小津の象徴的自叙伝なのだ、とも言える。

2013年6月17日月曜日

チャップリンの『ライムライト』




最初から最後まで、緊張の持続である。ヒッチコックもそうなのだが、ダラダラした場面がまったくない。途中、これって『スタア誕生』だったのね、と思ったが、スタア誕生は確か、スタアが主役であるのに対し、『ライムライト』はあくまでも、カルヴェロが主役である。バレリーナのヒロインが、劇場は嫌いだって言っていたじゃない、田舎へ行きましょう、あなたの面倒を見るわ、と言うのに対し、カルヴェロは、私は血も嫌いだが、それは私の血管の中を流れている、という名言を吐く。そして記念公演の大成功の後、これからずっとこうなのだ、2人で世界ツアーだ、と息巻いて、劇場で死ぬのであった。

『巴里の女性』のヒロインと「犬の生活」の浮浪者は田舎に戻り、『サーカス』や『モダンタイムス』のトランプは、一本道を歩いていく(『サーカス』では一人で、『モダンタイムス』では二人で)。劇場で死ぬ、というエンディングは、ついに行き着くべくして行き着いた、というところ。もっともそれまでは、「死」がお話の中に入り込む余地もなかったわけだ。

しかし、考えてみれば、Show must go on.で終わるエンディングも、今まではなかったのである。一本道を歩いていく先にあるのは、とりあえずはショーではない。結局はショーに行き着くしかない、ということを、『ライムライト』では確認した、というべきだろうか。それもそうだろうが、もうショーに立てる年齢ではなくなって、ショーにノスタルジアを覚えている、という方が正しいだろう。しかしやっぱり立てない。というわけでできたのが、『ライムライト』だ。

それにしても、チャップリンのトーキーへの抵抗は、正しかった。『ライムライト』で披露されている歌詞つきの歌よりも、『モダンタイムス』のナンセンス歌詞の歌の方が、はるかに生き生きしている。少なくともチャップリンは、喋りなしのマイムの方が、ずっと面白いのである。ミュージックホールの芸を、音なしで再現したところに、革新的な芸術が成立したのだ。

チャップリンが喋ると、チャップリン本人の地がすぐに出て、彼の哲学的演説になってしまう。演説の中身は、正論である。彼がそれを真実であると言って、真実を追求したい、と言うのも正しい。しかしそうすると、芸術作品がプロパガンダみたいになってしまう。芸術として正しい範囲に、収まってはいるが。それに、彼の言っていることは、特定のイズムに奉仕することのない、より漠然としたヒューマニズムみたいなことだから、プロパガンダというのも、少し違う。


たぶん、チャップリンが進んでいった芸術の方向は、19世紀の最高の小説がもたらすような、文学的な効果なのではないかと思う。トーキーの到来とともに喋らざるをえなくなった彼は、それを、映像そのものばかりでなく、言葉で伝えずにはいられなかった。逆説めくが、つまり小説的、文学的なのだ。

グルーチョならば、あのマシンガントークがあった方が、マイムだけより面白いのだけれど、チャップリンは、芸としてのマシンガン・トークをしない。そう、『ライムライト』でヒロインのテリー(クレア・ブルーム)と、作曲家のネヴィルは、お互い自分たちは内気だから、と言っていた。「内気な」チャーリーには、『黄金狂時代』で喋るの得意じゃないから代わりに、と言って披露したロールパンのダンスが、とてもとてもよく似合う。


2012年6月17日日曜日

ティム・バートンのアリス・イン・ワンダーランドとディズニー帝国の陰謀



ティム・バートンのアリス・イン・ワンダーランドを観る。
アリス好きでバートン・ファンのくせに、何と今まで見損ねていたのである。
アリスのアダプテーションには、私的にはあまりピンとくるものがない。(網羅的に見たわけではまったくないが、1966年イギリスのジョナサン・ミラー版は、好きな方かもしれない。)
夏の夜の夢の映画も同様である。
夢の世界というものは、いざ夢の媒体であるはずの映画にのせようとしても、じつは難しいものらしい。
ティム・バートンならどう料理するのか、と興味津々だったが、あまり芳しい評判も聞かなかったので、どうなったのかと気になっていた。

見てみると、すごい衝撃だった。
原作とは、まるで関係のない話になっていたからである。
ジャバーウォッキーは、鏡の国の逆さまの詩の中に出てくる怪物なのだけれど、何とアリスが、リアルに姿を現したジャバーウォッキーを、退治する話に変ってしまっている。
アリスは銀の鎧に身を包み、動物に乗ってナウシカよろしく、戦場へと突進していくのであった。アリスが、鎧?戦士になって突進???
アリスが19歳で、結婚を申し込まれているという設定からして驚きだったが、彼女がアンダーランドでの冒険を経て、つまり戦士としてジャバーウォッキーを倒して、地上に戻ると、そのプロポーズを拒絶して、ビジネス・トーク(!!!!!)に入り、中国という新世界へと旅立ってしまうのである。
こともあろうにアリスが、帝国主義の担い手たる、ビジネス・ウーマンになってしまったのである。これが驚かずに、いられますか。

名前がキングズリーというのも、気になった。父はチャールズ、つまり『水の子どもたち』を書いたヴィクトリア朝の児童文学者、チャールズ・キングズリーである。
これもアリスを実際の社会に結びつけるための、方策なのだろうか。
キャロルよりキングズリーの方が、児童文学者としても地に足がついているから、ということか。

もちろん、アリス・イン・ワンダーランドという題名といくつかのキャラを「借りている」とはいえ、内容が全く別物になっていたからといって、映画として問題がある、ということは何もない。
この衝撃は、映画に異様な陰謀を感じた、というところから生じている。
キャラクターやプロットの一つ一つが、マーケット・リサーチによって支配されている、という陰謀。
つまり金を儲けることが第一義に置かれて、映画の一つ一つが作られていく世界である。
ハリウッドの黄金時代だってそうでなかったわけではもちろんないが、現代の市場調査技術は、それをさらに精緻なビッグ・ビジネスに押し上げている。
ということは、現代の観客は、こういう映画を見たがっている、ということでもあるのだが。みなさん、面白かったですか、この映画。(つまらなかったと言っているのではないけれど)
どういうマーケット・リサーチによってこんな映画ができてしまったのか、どうすればそれを解明できるのか、アリスを元にこういう映画を作ってしまう現代とはどういう時代なのかと、わたしはマジメに考えている。

2012年4月6日金曜日

タランティーノ的『カサブランカ』

新年度初授業。1回目だから大したことをやるわけではないのだけれど、面白いことがたくさんあった。

2年生の英語のクラスのテキストは、『シンプソンズ』とか、イーストウッドのいくつかの映画とか、いろいろ考えた末に、急に妙案を思い付いて、採用にいたった。なんと、『カサブランカ』である。

以前のわたしだったら、そんな当たり前すぎる映画、いくら英語の教材だからっていまさら使ってどうするの、と最初から眼中になかった。自分は子供のときから繰り返しテレビのロードショーで見ては、感動していた映画だ。逆にいうと、子供のとき以来見ていない。最後に見たのはいつなのかよくわからない。たぶん遅くても中学生くらいだろう。

けれど、当たり前のことながら、昔の常識は、今の常識ではない。ひょっとすると今の学生は、『カサブランカ』なんて見ていないのではないか。『ローマの休日』も、『サウンド・オブ・ミュージック』も、『風と共に去りぬ』も?逆にこれは学生にとっては目新しい映画なのかも知れない、と思いついたのである。授業の前にちょっと聞いてみたら、案の定、ほとんど誰も知らない。もうすっかり免疫がついている(つもり)なので、こんなことでは別に驚かない。やっぱりそうか。

このスクリプトを勉強して、英語字幕だけで見てすっと理解できるようになりましょう、というコンセプトの授業なのだが、1週目と2週目はとりあえず日本語字幕をつけて通して見せるより他ない。それで、最初の半分を、見せた。

うちの学生はみんないい子たちである。大体の映画は、こっちがテキスト選びに神経を使っているせいもあるけれど、みんな面白そうに見てくれる。いい場面ではわーっと沸いたり、笑っちゃう場面では笑っていて、感動的だとティッシュ片手に泣いていたりする。とにかく楽しそうなので、こっちも楽しい。といっても、見せている自分も、つい映画に見入ってしまうので、結局あまり学生の方を見ているとは言い難いのだけれど。


 イルザ(イングリッド・バーグマン)がピアニストのサム(ドーリー・ウィルソン)の方へつつとすり寄り、「あれをまた弾いて。(Play it again, Sam.  Play it.)」と言う有名な場面になった。スリー・ポイント・ライティングに照らされて、眼をうるうるさせたバーグマンのアップが、画面いっぱいに映し出される。


 すると、不思議なことが起こった。学生が、ゲラゲラ笑っているのである。そう言われてみると(笑われてみると)、この場面は確かにほとんどマンガだ。テレビ・ロードショー的な意味でかも知れないが、映画史上に名だたる傑作の美しい名場面も、彼らの目には、眼の中に星が入った少女マンガなのだ。もちろんわたしも、この場面に感動して見ていたわけではなく、むしろ、「おお、スター・システム全盛期のこの、ボガードやバーグマンを映しだす画面はどうだ。分析に値しそう」などと思いながら見ているのだけれど、ここではっきり笑ってしまう、という彼らの感性には、ちょっと驚いたし、むしろ感心するところもあった。彼らには『カサブランカ』が、すでに、タランティーノやシンプソンズみたいに見えるらしい。あ、パロディということです。

教わらなくても、異化して見る訓練が、子供のときから身についているのだろうか。しかし、例えば韓流ドラマとかを見た場合、彼らはどう反応するのだろうか。韓流ドラマに感情移入する(じつはわたしは見たことがないが)のも、すでに前世代の人間なのかも知れない。英語の授業にあまりにも王道な映画を選んだつもりが、結局映画の解説とかもしなくてはならなくなりそうだが、まあ面白いといえば結構面白い。


 ハリウッド・スターシステム全盛時代の撮り方が彼らの感性にどう見えるのか、そのことによって当時と現代の違いが、いろいろ分析できそうである。

2011年2月4日金曜日

ろくでなし啄木@シアターBRAVA!~「啄木の二面性」とは?


 藤原竜也に一緒に何かやりましょう、と依頼を受けた三谷幸喜は、啄木の二面性を藤原に演じさせるのは面白いのではないか、と考えて、『ろくでなし啄木』の構想を練ったという。しかし、啄木の二面性とは何なのだろうか。この芝居に描かれている(虚構の)事件は、啄木が『ローマ字日記』を書いていた頃に設定されている。ローマ字で日記を書くということ自体が、まず二面性の現れだということなのだろう。つまり自分が本当に考えていることは隠す、ということだ。啄木がこの日記をローマ字で書いたのは、妻に読まれないため、ということになっているが、日本語の表記法の実験の意味合いもあり、最初の喀血の日に、『字音カナヅカヒ便覧』を写す、などということもやっている。意図的にしろ結果的にしろ、ローマ字で書くことは文体的な実験であることは論をまたなくて、つまりそれによって啄木は、束の間の精神的、倫理的、伝統的抑圧から自由な世界を書きとめ得た。もっとも、だから『ローマ字日記』がすぐれた文学作品になっているかというと、そういうわけでもない。少なくとも中学時代は大の啄木ファンであったわたしなので、悪気があって言うわけではないが、文学作品として見れば、せいぜいが二流の私小説である。日記とはそういうものなのだからそれでいいのだが、同じ日記でも、永井荷風の『断腸亭日乗』のようなダンディズムからはまったく無縁である。啄木にとってそのような自己表現の最高の文体は、短歌に他ならなかったわけで、『ローマ字日記』は、そうしたフォームに到達するまでの孵化期の記録とみるのが、まず順当なところだろう。

 で、この『ローマ字日記』の作者は、芸術的孵化期に何をしていたかというと、病と貧窮に苦しみ、文学芸術や思想的な問題に悩みつつ、基本的には、女を買っていた。というのが、三谷の芝居の啄木が、「ろくでなし」である由縁である。芝居の中で石川啄木つまり一(啄木の本名)は、トミ(吹石一恵)という女と恋仲にあり、彼女のことが今でも好きで、ろくでなしの一に金を用立ててやる親友のテツ(中村勘太郎)と一緒に、温泉宿に来ている。借金で首が回らなくなっていて、人に迷惑をかけ続けているのに、吉原やギャンブルに浪費ばかりしている。トミはそれを知っているが、それは彼女の親友が彼女に教えてくれたから。一はしらを切り通し、悪いのは自分ではなくその友だちであるという詭弁をなめらかに繰り出してみせ、このあたりは(わたしを含めた)現代の女性観客にも、「ああ、だめんず」という溜息を誘うところだ。二面性というのは、イノセントな抒情詩人というイメージの啄木が、中身をみてみるとただのだめんずである、というところに起因しているのだろう。もっとも、ここでの一は、まだ大したものを書いていないからだめんずなのであって、その後『一握の砂』を発表した彼のステイタスは、一流の文学者に昇華される。

 当座はろくでなしの物書きである彼の二面性は、嘘つきというところに現れているらしい。それを表現するための語りのデバイスが、芥川龍之介の『藪の中』、そしてそれを映画化した黒澤の『羅生門』に借りた、三者三様の異なった語りの視点である。『藪の中』では、盗人が女を暴行してその夫の武士は殺されるが、誰が武士を殺したのかという真相は誰にも分からない。暴行と殺人(ないし自害)という事実はおそらく揺るぎがないが、その経緯を語る三者の語りはまったくバラバラである。ある出来事は、それを見、認識する者の頭の中でまったく様々に解釈されて物語られるものであって、本当はこれが正しかったというような「事実」など、じつはどこにも存在しない。ということを、『藪の中』は描いているのだと思うが、プロットの外形とその語り方を『藪の中』に借りた『ろくでなし啄木』には、れっきとした「中心」がある。それは啄木の意識である。『ハムレット』の独白もやったことのある藤原竜也の、最後の独白は圧巻だが、それまでは、それぞれトミとテツの視点から語られる、一の策略の物語である。そして一の策略とは、そのようなワルぶり、ろくでなしぶりの演技(そう、それもまたひとつの「演技」なのであって、隠された「真実」であるわけではない)に疲弊してもいる彼が、「底」にある自分の状況に耐えかねて、彼らに自分を殺させようとすることだった。ところが、嵌めに嵌められても純朴なトミとテツは、一に憎しみを持って殺意を抱くということにならず、一の策略は失敗してしまう。その後一は行方をくらまし、やがて妻子を呼んで一緒に住み、『一握の砂』を書く、という筋書きが、トミとテツとによって語られる。

 そういうわけでこのエロティック・サスペンスは、じつは通過儀礼の物語になっていた。自分を殺させる舞台を演出する主人公(そしてそれに失敗して大成する)というのが、謎解きの答えである。そこでわたしはまた、啄木の二面性ということがわからなくなる。死の願望を抱えた文学者がそのための舞台を演出する、そのどこに二面性があるというのだろう。むしろ彼のように真摯な、裏表のない人間はいないようにおもえる。『藪の中』は、特定の人間の例えば欺瞞性といったことではなく、認知ということに内在する決定不可能性を書いている。他方『ろくでなし啄木』は結局のところ、ろくでなしの文学者の真摯な生/死を描いているのだが、欺瞞的な二面性といったことから、それほど遠いところにあるものはない。偽装されたロマン主義という意味では、これは正統的にモダンな作品である。一とトミとの「濡れ場」や、テツとの(策略的な)「過ち」の場面は、むしろコミックに演じられていたけれど、脂の乗りまくった藤原竜也(と三谷幸喜の脚本)がムンムンと発していた色気は、確かに尋常ではなかった。この作品がエロティックであったとすれば、それは例えばセックスにではなく、石川一(そして藤原竜也)の、若いろくでなしな真摯さからきているように思われた。

2011年1月21日金曜日

柄谷行人『世界史の構造』講演(トークイベント)メモ@近畿大学文芸学部

(ただのメモですが、要望によりアップします。纏めたブログはいずれ書く予定…?)

現在『哲学の起源』という本を執筆中である。半分くらいは書いた。

『災害ユートピア』という本を読んだ。災害というのは、向こうから突然降ってわいてくるもの。頼んでくるわけではない。しかし、そういう事態において、突発的に共同体ができる。利害関係や権力関係のないところに、お互いに自然に助け合うような社会。

昔の人類には守るべき土地がない。どいてしまえば戦争はおきない。バンド。遊動的状態が基本状態。ホッブスなどが言っていることは、「近代」にすぎない。戦争をしていないのに、していると思ってしまう。お互いに脅威だと思ってしまう。
互酬社会
(『世界共和国へ』を書いていたときにはよくわかっていなかったので、あの中の記述は間違っている…)
共同寄託 バンド25人くらい…
passion for distinction オリンピックも同じ。~名誉だけ、何ももらえない。鹿をいくつ捕ったとか…
(渡部直巳先生は完全にpassion for distinctionの人←奥泉)
獲物を俺のものにするのは卑しい。昔の人はみんな取り合い…。手に入ったらみんなで分ける。寛大。

佐藤優との対談。鈴木宗男にモースを読ませたら、俺はモースだった(贈与していた)と言っていたが、それは再分配のことである。それによって権力が持てるから。

互酬原理からネーションができた、という指摘は、すごい発見である(←奥泉)。
ネーションはみんなが平等なわけではない。
国民には、死者もこれからの人も入る。“国のために死んだ”。過去の死者からの贈与(負い目)。返さなきゃならないというのが、ネーションのパッションである。

動物にはヒューマニズムがないですから…

共同体が壊れたところに想像上作り直したのがネーションである。民族基盤ではない。

ノスタルジーというのは自分中心。負けたのに捨てられなかった神はユダヤ教。
負けたのは自分の…というナルシシズム。ではないものを考える!向こうから神が来てしまう…
災害は向こうから来る、途端にユートピアが来る。自分からユートピアを作ろうとしたわけではない。
宗教じゃなくてDのものがあるか?→哲学の起源

イオニア(トルコ)
イソノミア。同等者支配と訳されることがあるが間違っている。これが分かっているのは一人しかいなくてそれはハンナ・アーレント。無支配(no rule)であると言っている。そこでは自由であることが平等になる!

われわれは自由と平等とが相反する世界に生きている。
議会制は自由主義。小泉のは新自由主義で不平等、民主党がでてきて平等に戻そうとする…
自由民主主義で最後だ、世界史はこれで終わったとフランシス・フクヤマは言うが、自分はその形態を超えたものを考えている。

自由と民主との相克
アテネ 市民皆兵 自弁、自分で武器を持つ。→国家の危機。それを民主化しようとしたのがソロンの改革など。市民は奴隷になってはダメ。→デモクラシー。本来の動機は国家的なものである。船の漕ぎ手。奴隷は働かない、アテネ海軍は必死→政治的権利を要求。全員参加~お金をあげる。→もっと戦争で勝て!と騒ぎだす。日比谷焼き打ちデモというのは、賠償金が出なかったとき、大衆が怒って蜂起したもの。
アテネに問題解決のカギを求めてはいけない。カギはイソノミアにある。しかし資料がない…。イオニアの自然学者というは学問でないとバカにされている。
交換様式論を知らないとこう断言できない。
似た例では17・8世紀アメリカ植民地におけるタウンシップというものがある。ハンナ・アレントが言及しているもの。南部は違う。評議会。西部がある。大土地所有がない。働く人がいない。人のところで働くくらいなら自分のところで働くから。
レーテ(ドイツ)、ソビエト(ロシア)、コミューン(イタリア)
伝統がないのに出てきてしまう~災害があったらできてしまう
タウンシップが(イソノミアに)似ているのはたぶん移民のせいだろう。
ダメなのはアテネ中心主義。よそに行けばいい人を引きとめられない。タウンの連邦形態。
ロシア革命直後2か月くらいはイソノミアだったが…
デマゴーグ 民衆指導者~ネガティヴ
自由→独裁、をみんなが支持。プラトンの哲人政治→現代名は共産党
デモクラシーの議論ではなくイソノミアの議論をしなければならない!!
(島田裕己はイソノミア神社が必要だと言っていた。神主になりたいそう)

アダム・スミス、リカード 資本主義は終わる、それは技術革新が終わるからだと言っている。
マルクス 利潤率の低下。労働生産性を上げるためにロボットを使うと、労働生産性は増大するが、ロボット代がかかる。→資本主義の行き詰まり。自分のところには新しい消費者・労働者がいない。→帝国主義になる。外に向かえばいい…それがグローバリゼーション。日本人はみんな車を持っている。じゃあインドと中国に。次はアフリカ、それでフロンティアは消滅。そして資本主義は終わる。

資本主義でないシステムは今できる。例えば親孝行、介護は資本主義でないシステムである。災害になったら、みんなそういうことをする。準備していないと資本主義が壊滅したときに困るでしょう。

NAMは局所的な運動だったのに、そうでないフリをしたところが間違いだった。

2011年1月17日月曜日

時計じかけのオレンジ@赤坂ACTシアター[舞台・演劇]


 これはゴキゲンなお芝居だった。生バンドが演奏する音楽もいいが、たぶんいちばん印象的なのは、色鮮やかな映像の美しさ。舞台に出ているキャストが、みんなオレンジ色の服を着ていたりして。まあこういうのは、蜷川幸雄のシェイクスピアなんかでも、普通にやっていることだけれど。ここのところずっと、オーソン・ウェルズの勉強をしていて、ブラック&ホワイトの映像ばかり見ていたので、この色彩と元気さには、気分がハイになった。ロンドンやニューヨークに行かなくてもこんなのが見られるのなら、東京も捨てたものじゃない。バック・スクリーンに映る大きな映像が、元気なヴィジュアルに大きく寄与している。(ホリプロがバックについた)ハイテク(と言うほどではないけれど)な芝居というのもいいものだ、と素直にニコニコしてしまう。

 『時計じかけのオレンジ』といえば、言うまでもなくキューブリックの映画が有名だけれど、昔この映画を見たとき、それなりに面白かったとは思うが、お気に入りに入れたような記憶がない。行動心理学者スキナーのヴィジョンを諷刺した、管理主義的社会批判という類の、SFにありがちなモラルというのも何だか単純だし、当時はあまり深い?話のようには思えなかったのではないかと思う。しかし、あまりにも芝居が気に入ったので、とりあえずその場でバージェスの原作(の翻訳)を買った。昔原書は読んでいたのだが、当時の読解忍耐力?では、アレックスたちが使うスラング、バージェスの造語のナッドサットを読み飛ばして、そのままにしてしまっていたのだと思う。バージェスが解説書を書いている『ユリシーズ』ほどの規模ではないが、言語の魅力が分からなければ、この作品を楽しく読んだことにはならないからだ。今回初めて読んだ翻訳はきちんとしていて、面白かった。言語と文体のパワーが楽しくて、舞台を見たときと同様の快感がある。さらにDVDも買ってきて映画も見直すと、そのあまりにも素晴らしく美しい映像に、ヤられてしまった。というわけで、以前は今一つ何とも思わなかった『時計じかけのオレンジ』だが、すっかり好きになってしまった。実家の倉庫をひっくり返して、イギリスに行く前(つまり日本で)とイギリス滞在中に買って2冊持っているはずの原書を探したけれど見当たらず、また買う羽目に。

 『時計じかけのオレンジ』は、いろいろな意味で論争を引き起こしてきた作品だが、そのひとつに、エンディングに関する問題がある。キューブリックが底本に使った当時のアメリカ版は、暴力を振るうと気持ち悪くなるという条件付けが解かれて、元の非行少年?に戻るところで終っているのに対し、バージェスの原作にはアレックスがなんとなくそろそろ家庭でも持ってみたいなぁと思うという、最終章がついていたという話である。それにしても、何だか変な話ではある。原作者に対して出版社側が、ペシミスティックなエンディングを要求したというのだから。だって、普通は逆でしょう。そんな話は枚挙に暇がないけれど、『偉大なるアンバーソン家の人々』の世にも美しかったらしいペシミスティックな映像は、スタジオのバカによってカットされ、しかも捨てられて、ありきたりなハッピー・エンディング・チックなラストが付加されて、今や映画は幻の名作になってしまった(現存するフィルムだけでも十分うっとりするが、ウェルズによれば、こんなものではなかったのだそうだ)。バージェスの場合は、この反対だ(もっとも、キューブリックはアレックスが成長するなんていうエンディングは退ける、という立場だけれど)。これをバージェスは、自分の本はケネディ的に進歩を信じるものだったのに、アメリカの要求したものはニクソン的なペシミズムだったと、面白い言い方をしている。

 それで、どちらがいいのだろうか。舞台を見て映画を見直してみたわたしは、正直どっちでもいいんじゃない、と思った。というのは、今回の舞台と映画とでは、受ける印象があんまり変わらなかったからだ。肝は圧倒的なヴィジュアルとサウンドの快楽なのだから、オチなんかどうでもいいのである。いや、じつは舞台で、映画と同様に、「おれは、まるっきりなおったんだ」というところまで来て、いったん幕が下りたとき、「え?もう終わり?」と何だか物足りなかった。もっともそれは、舞台の演出の河原雅彦氏が、そういうように話を作ったからなのかも知れないのだが。バージェスの原作にしたところで、元気な文体の魅力を堪能できれば、最終章がついていたからといって、そこに胡散臭いモラリティが加味されるということもないのだ。付け加えておけば、バージェスの原作は3部に分かれていて、そのすべてが7章から構成されているが、この7という数字は、シェイクスピアの『お気に召すまま』の有名な台詞、人生は7つの段階に分かれている、から来ていると思われる。であればむしろ、そうやってアレックスが大人になって、息子ができて、その息子がまたアレックスのようなことを仕出かすかも知れないという意味では、バカみたいに同じことを反復する人類に対する、よりクールなヴィジョンを提供している、とさえいえるかもしれない。

さて、かわりに河原氏の付けたオチは、青年期的なヴァイオレンスのエネルギーは、クリエイティヴィティに変わるのだ、とガナリ立てる、パンク・コーラス・ショウだった。オチが必要なのだとすれば、河原ヴァージョンはまったくの正論だ。もっとも、演出家も含めて、どうも今回の芝居に出ているキャストは、相当私生活がメチャクチャな人たちらしい。「精一杯妥協なく創る…から、私生活はダメでもいいでしょ、突っ込まないでよソコ」、と河原氏は言うのであるが、それにしてもいったいどうメチャクチャなんだろう、と興味が湧くところではある。それくらいメチャクチャなエネルギーがあるから、こんなにワクワクする芝居ができるとすれば、アレックス的エネルギーは見事に昇華されて、じゅうぶん社会の役に立っているということになる、などというオチは、まあ、どうでもいいか。

2011年1月16日日曜日

エリックを探して

黄金時代のハリウッドのロマンティック・コメディが、いつも同じ結末で終わってもそれでしあわせになれるのと同様に、イギリス映画というのは結構、同じ話が多い。そして、それはわたしにしあわせをもたらす。『エリックを探して』を見ながらそんなことを考えていたわたしの脳裏には、例えば『フル・モンティ』や『シャンプー台の向こうに』(Blow Dryの邦題を調べたらこういう題名だったらしい…)なんかがあったのだけれど、とにかくイギリスの文化的活力を支えているのは、これらの映画で活躍するような、限りなくワーキングに近いようなロウアーミドル(下層めの中流階級)である。もっとも、ちょっと歴史を遡った映画なら、面白いのは貴族なのだけれど、貴族が事実上いなくなってしまった後のイギリス文化の主役は、圧倒的に彼らである。かのモンティ・パイソンはおしなべて、ロウアーミドル出身であって、その出自が創造性にもっとも適していると自ら言っている。アッパーミドルやミドルはマネーの稼ぎ出しと運用で忙しくて、映画の題材にしてもあまり面白くない。そこからちょっとはみ出たロウアーミドルこそ、現代イギリス社会のヒーローになる。

ロウアーミドルというのはどういうのかというと、とりあえずまず冴えない。主人公たちはそうではないけれど、彼らの仲間には太っているのが多い。パブへ出かけてビールを飲み、モニターでサッカーの試合を見る。家にいるのはパートナーとその連れ子。現在は結婚していないことも多い。貧乏暇なしで、子供は問題を起こしており、本人もだいたいウツである。この映画のエリックは、パニック症候群らしい。それで愛する妻リリーと子供のいる家から、まだ若い時分のある日飛び出し、そのまま帰ることができなかった。エリックの後の再婚相手?は出て行き、彼は単身彼女の連れ子を育てている。カウンセラーは出てこないけれど、リリーは理学療養士であり、パニックの患者には慣れている。郵便局員のエリックの同僚たちが、セルフヘルプのグループセラピーみたいなことをやっているのは、映画の中で最初に大笑いをしてしまった場面だった。大学4年のエリックとリリーの子供サムは、シングルマザーのようである。

映画の筋を追おうとしているわけではなくても、図らずも追ってしまっているようなことになるのは、言うまでもなくイギリス・ロウアーミドルのリアリティというものを、ケン・ローチ(脚本はポール・ラヴァティ)が見事に再現しているから。もっとも、あまりにもありきたりなものを写しているだけなので、見事にという形容語句を使うのが躊躇われる。しかし、そのありきたりさがこれでもかと積み重なってくるにつけ、ニヤニヤは止まらなくなってくる。これはコメディの常道である。当人たちにとってはむしろ悲惨な毎日なのだけれど、距離を置いて見る観客にはそれが可笑しい。これを見るイギリス・ロウアーミドルの観客にとっては、自虐的ユーモアということになるかも知れない。イギリス人の得意芸である。

それにしても、ありきたりなものが面白いというのは、一体どういうわけなのか。芸術というのは、ありきたりな日常を超える世界を愉しむものではなかったのか。じつは我々日本人にとってはイギリスは別世界だから、その別世界の事情が細密に描写されればされるほど、そのような愉しみが増すということはある。しかし、イギリス映画が楽しいのには、それ以上の理由がある。イギリスのコメディが秀逸なのは、イギリスが「没落」国家であることと関係がある。これは、先にひとむかし前の貴族を扱った話は面白い、と言ったことと通じている。ひとむかし前の貴族にしろ、今のロウアーミドルにしろ、現代社会において彼らは、負け組である。負け組を負けとして描くことが、面白いわけではない。マネー社会における負けが、文化的価値において勝ちに転嫁する、そのメビウスの輪の妙を自虐的に愉しむところに、イギリス映画の快楽があるのである。悲劇の主人公が死んでもカタルシスの芸術的価値が低くなることには当然ならないのと同様、ケン・ローチの普段は潰えてゆく負け組の人間たちは、その人生を精一杯生き切ることによって勝つけれど、今回の映画はコメディだから、彼ら冴えない庶民たちが、エリックの息子を脅して自分の犯罪に巻き込んで困らせているギャングの鼻をあかしてやるという、文字通りの逆転ヒーロー劇がある。実際には、大した勝利があるわけじゃない。それによって金が儲かったりするわけではさらにない。けれど彼らの物語は、パニック症候群のロウアーミドルの市民に、最後の闘いがハムレットに与えるような、精神的なカタルシスを与えている。

この映画のクライマックスは、ドタバタ逆転ヒーロー劇を演じるエリックの同僚たち、つまり郵便局員たちがギャングに向かって、「お前がどこへ逃げたって俺たちがお前の居所を突き止めてみせる、なぜなら俺たちは、(一呼吸置いて)郵便配達人だからだ!」と言うところである。これには呵々大笑してしまった。郵便配達人は必ずしもカッコいい職業ではないかも知れないけれど、その職業的特権には、住人の住所と名前の情報を持つということがある。ここで個人情報云々とか、担当でない区域に移ったらどうなるのかといった、野暮な突っ込みは止めにしよう。ここにおいて郵便配達人は、紛れもないヒーローに変身する。まさにメビウスの帯である。

ここでわたしは急に、以前書いたモンティ・パイソン論の終わりで、マイケル・ペイリンの郵便局への執着に言及したことを思い出した。ペイリンが書いた小説の主人公は、まさしく郵便局員であって、冴えない主人公は小説のクライマックスで、突如ヒーローに変身する。そう、モンティ・パイソンには、自転車修理マンというのもあった。自転車を修理するというかなりロウアーミドル・チックな男が、Sの字のコスチュームに身を包んだスーパーマンたちの社会で、ヒーローとして崇められているスケッチである。『エリックを探して』で、主人公のリトル・エリックを励まし続けて、最後のどんでん返しを仕組むための勇気を与えるメンターは、ビッグ・エリックつまりサッカー界のヒーロー、エリック・カントナである。実際この映画は、サッカー好きのケン・ローチに、カントナが企画を持ち込んで実現したものらしい。カントナ自身はフランス本国を追われてイギリスへ渡り、マンチェスター・ユナイテッドで活躍した亡命者のような存在だけれど、スター・サッカー選手といえばワーキング・クラス、ロウワーミドル・クラスの成功物語であるのが通常である。いわばサッカー選手と郵便局員というのは、イギリスのワーキングないしロウワーミドルの2大ヒーローであると言うべきかも知れない。両者ともにチームで力を発揮する、というところが共通している、というか、ケン・ローチはそれを強調している。ついでに付け加えておけば、エリックと当時の美少女リリーを結びつけるのは、これもイギリス・ワーキング+ロウワーミドルのお家芸、ロックンロールだった。

この映画の中で彼ら2大ヒーローは出会い、そこからひとつの英雄劇が演出される。郵便局員にそのような特別なステイタスを与えられる国、それがハマる国は、おそらく現代イギリスを擱いて他にない。ペイリンが賛を捧げるような郵便局員はローテクに誇りを持っているが、エリックたちは息子のアイディアで、You Tubeを武器に使うことにする。郵便局員はそれをブルーチューブと言い間違ったりするのだが、そんなちょっとばかりのメディア戦略が、現代社会の逆転劇演出のスパイスとして使われているのも、温かい微笑を誘う。何ら力のない者でもちょっとしたはずみで英雄になれたりするのが、現代メディア社会の特質でもあるわけであるし。

イギリス映画の快楽は、マーケティング調査に基づいて作られる、CGを駆使した3Dの商業的映像から限りなく遠く離れた、そういうささやかなローカリズムの勝利に存している。

2010年3月28日日曜日

秩序ある混沌~千住博・大江健三郎・ニーチェ

もう先週のことになるが、京都造形芸術大学の卒業式に行く機会があった。祇園の料理屋で、湯葉づくし懐石をご馳走して頂いたのも有難かったが、思わぬ収穫だったのは、理事長以下の卒業式辞が聞けたことだ。さすがに芸大だけあって、大学の運営サイドの人たちもみな芸術家であるところが、かなりウラヤましい。学内にある春秋座には2か月前、スウィフトの芝居を観に来たのだが、その時は風邪気味だったせいもあり、大学のカフェでハーブティーが飲めたのがうれしかった。芸術大学はさすがにちょっと違うのかな、などと思ったものだ。さすがといえば、卒業式というよりは仮面舞踏会のような出で立ちの学生も、多かった。舞台専攻の代表の学生は、全身ブッシュマンのようなボディメイクをして、舞台に上がっても引き攣りの演技を暫く続けている。文明社会の中に放り込まれて、突如芽生えた自意識なるものが身体を急襲した、というシナリオだったのだろうか。ソバージュ(野生)なるコクーン(とまで言うのは大学を褒め過ぎだ)から、これから社会に出ていかなくてはならない境界に立って、止まぬ戦慄の身震いを表現している、ということなのだろうか。

 着物に袴姿で楚々と証書を受け取りに行く代りに、同級生4人を巻き込んでパフォーマンスをした学生も別にいたし、他にも奇抜な格好の学生は多くいた中、ブッシュマンの彼の話につい入り込んでしまったのは、さすが学科の代表(つまり最優秀学生)である彼の引き攣りパフォーマンスが、「思わず目を止める」ものだったからだろう。これは取りもなおさず、学長で国際的に活躍しておられる日本画家(?)である千住博氏の話の、主題であった。卒業制作展を見て、今年は例年に比べハチャメチャな作品があまりなかった、という話から入った千住氏は、「思わず目を止める」作品はどのようにして作るのか、その秘訣をお教えする、それは「秩序ある混沌」である、といきなり断言したのである。
 
 この話(というよりその話をする千住氏)は、わたしに「現場」的な軽い興奮をもたらした。それは渡邉ひとみによってインタビューされる大江健三郎のアップが、テレビ画面に映ったときに覚えた興奮を、想い出させた。その大江氏は書斎に恩師渡辺一夫氏の写真を飾っていたが、それはカメラ越しにもすごい迫力だったから、外国文学者といえどもそこまで極めれば、やはり現場的オーラを放つのだろう。僕は仏文に行くと決めたのだから英語は自分で勉強してやろうと思って、学生時代自分で英詩なんかを一生懸命読んだ、今も1日20ページなら20ページと決めて、翻訳と付き合わせながら原書を読む、それから自分の作品を書く、と言うのを聞いて、イギリスを専攻してしまったからといって、大好きなフランス語の本を読んでいけないという法はないのだ、などと勝手な得心をしたりしたのであったが、そうした言葉の意味内容には取り立てて驚異的なものはない――大江健三郎が原書を読んでいることは、改めて聞くまでもなく誰でもが知っている――にもかかわらず、そう淡々と語る大江のアップを実際に見るという経験は、少なからぬ戦慄をわたしに与えた。その余波は未だにつづいているようだ。話がずぶずぶと大江健三郎の方に行ってしまったが(それはやはり、当然のことながら、大江がただ普通に話しているだけで「思わず目を止める」存在であるからだが)、とにかくこれらの人々は、作品はもちろんのこと、話しぶりから既に「秩序ある混沌」の結晶のようだった。内部に抱えこんだ、常人には及びもつかない奥深い混沌こそが、超一流の作品のエネルギーであるのだが、それを秩序ある芸術形式に表象してはじめて、人の心を掴む作品が成立する。彼らのまさに静かで端正な話しぶり(秩序)には、それを現場で積み重ねてきた気迫のようなもの(混沌)が、充ちていたのだ。

千住氏はもうひとつ、3割打者というのはすごい打者である、しかし7つの駄目な芸術作品を作ってしまったら、芸術家は嫌になってしまう。それでも作品を続けて出すことが大切だ、生き残った芸術家はみなそれをしている、とも言っていた。そして最後に、これから君たちを僕は呼んで一緒に仕事をするかも知れない、君たちが僕を呼んでくれるかも知れない、と言ったのだったが、彼を呼んだり呼ばれたりする筋合いでは全くないにもかかわらず(笑)、その言葉(を発する千住氏)にもわたしは、マイってしまった。

偶々そのときわたしは、講義の予習で、ニーチェの『悲劇の誕生』を、学生時代以来久々に再読している最中であった。「明朗なギリシア人」というトポスに対して違和感を覚えた、当時はまだ若き学者であったニーチェは、戦争の最中山に籠って、『悲劇の誕生』を書きあげた。改めて書くまでもないがそこには、コーラスにおいて表象されている、ディオニュソス的混沌と陶酔が、アポロ的秩序を示す対話と交互になって構成されていることが、ギリシア悲劇の栄光であって、ソクラテスとエウリピデスが理性の哲学・演劇を始めたときそれは終焉を見たのだ、と書いてある。

千住氏の次は浅田彰氏が、depressionは飛躍への足掛かりだ、『アポロ13』という映画を見なさい、と話された。映画が「アポロ」だけあって、ディオニュソス的なところがなぜかあまり感じられない、きわめて上手で端正な良いお話であった。そしてその次の東北造形芸大学長の日本画家の先生は、「僕には感動するということができたのです!!」と、今度はディオニュソス丸出し(?)の熱いトーク。しかし何といっても極めつけは、その次に登場した理事長である。教壇がそこにあることなど眼中にもなく、舞台の真中に仁王立ちになり、マイクを右手にぶら下げたまま、京都文芸復興の理念に基づき大学を始めた話を絶叫された。「私は、ちょっと、興奮しています!!」。そうですね、ちょっと。

 さすが大学を造ろうと思うような人は、突き抜けている。

2010年2月10日水曜日

何かが生起している場所にきちんと己の身体を運ぶこと(石光泰夫 -『新・知の技法』)


大学というところに4年間勤めてみて、大学をとうに崩壊している「教養主義」の場所ということではむろんなしに(教養とはつねに教養主義の批判だったのだと柄谷行人も書いている)、しかし真の文化・教養・知(智)のトポスとして再生させることに、自分は全力を尽くさなければならないと、いやましに感じるようになっている。これから環境の変化があることもあり、大学教養ということを長年考えて来られた先輩の先生がチーフになっている研究会の冊子のために原稿を4本書いたり、来年度の講義シラバスを書いたりする道すがら、小林康夫先生が主幹となって、そのような大学における教養教育改革を推進した際の生産物である例の「知の3部作」(+新)を、今更ながら改めて買った。といってもまだちゃんと読んではいないのだが、石光泰夫の一言があまりにも身につまされたので、自戒を込めてここに書き抜いておく。

「吉村雄輝や武原はんがたてつづけに物故して、あらためて何かが生起している場所にきちんと己の身体を運ぶことの重要性を思い知らされた。それは、知というものが自分のなかで組織されるための前提条件である。『行けばよいというものではない』は行ってみてはじめて言えることだという背理を、活気のある『知の技法』はつねに生きていなければならない。」

 学生時代からそのことは痛感していたのだが、現場に入りきるのではなく、現場と接点をとりながら知・学問を推進していくというスタンスが、当時の母校の制度の中で結局取れぬまま(それを取ろうと試行錯誤することだけでわたしは人生のうちのかなりの部分を浪費している)、結局文学研究というスタティックな場所に、入り込むことになってしまった。しかし文学とは本来アクチュアルなものである。そういうスタティックな場所から、アクチュアルな何かが生起している場所への接点を、改めて拓こうとしていくこと、それによって活気のある「知の技法」をつねに生きるようにすること。実際的であることを優先して文化教養を潰すこととそれは全く(似て?)非なるものなのであって、そういうダイナミクスが理解できない一方からもう一方への極端な移行は、日本人が得意なことではあるが、そういうことが起こるのも、畢竟「智」が定着していないからである。他ならぬ大学は、そのような活気のある知のトポスとして、再生(ルネッサンス)されていかなければならない。

2010年1月31日日曜日

こなごなな社会に拮抗するためのルプレザンタシオン ――蒲池美鶴『シェイクスピアのアナモルフォーズ』(研究社、1999年)、古井由吉・松浦寿輝『色と空のあわいで』(講談社、2007年)

コロンブスの卵の話は、「果敢な視点の転換」に関する逸話であるが、その話を聞いて、心の中でそっと、「でも、卵は割れてしまったんだね…」と呟く人もいる。1980年代以降のエリザベス朝演劇批評の流れを見ていると、なぜかこのエピソードが思い出されて仕方がない、と蒲池美鶴は書いている。「そもそも、卵は割らなければ立たないものなのだろうか?…素晴らしい批評理論をあてはめて解剖した後の作品がバラバラ死体として横たわっている光景を見るのは悲しいものである」。バラバラ死体のような時代であるのならば、バラバラ死体のような文芸批評が流行するのも、時代の表象というものだろう、というのは、シェイクスピアでいえば『お気に召すまま』のジェイクイーズが言いそうなシニシズムというべきであって、文化も教養もこなごなになっているこんな時代であればこそ、そこにバラバラ死体ならぬ活力ある生命体の存在を希求するのは、時代に背を向けることではなくて、時代に拮抗するつまり立ち向かう姿勢である。バラバラな社会に元気をもらえないひどく生半可な存在としてのわたしは、そんな時代から辛うじて退却せず、むしろ立ち向かってそのアクチュアリティの表象を探しもとめるにはどうしたらよいのかと、日夜考えつづけている有り様なのだが、たがいに全く関係のないこの2冊の本たちは、わたしにそのような生きる光を与えてくれるという点で、共通している。

古井由吉は内向の世代といわれているが、自身の生活に密着しつつ微細な記述を展開してゆく古井の文章には、時代の深層に底流する共同体の無意識の重い存在感が絶えず染み渡っている、と松浦寿輝は書いている。「最新トピックや現代風俗を意匠としていち早く取り入れて、これこそ『今』だ、今の社会だと誇らしい手つきで示してみせる小器用な作家はぞろぞろいますが、私の眼にはむしろ逆に、あからさまに『時代と寝ている』そうした人たちの作品の方こそ『内向き』の言葉にすぎず、私たちの生の基層で沸騰している共同体の欲動の流れを取り逃がしているように見えるのです」。松浦自身の作品も、どん詰まりの、デッドな世の中という題材を取り上げて、それをアクチュアルな現場の物語として書き紡ぎながら、その物語はいつしか疎外というきわめて普遍的な深層へと落ちて行く。私たちの生の基層で沸騰している共同体の欲動の流れなるものも、その表層は刻々と変化していきながら、深層では結局さしたる変わりはないかのようでもある。そのような人間存在の深層への深い共感なくして、いかに鋭利な批評のメス捌きを競ってみても、果たして根源的な批評になっているものだろうかと、松浦は問いかけているのかも知れない。そうした深層のアクチュアリティに少しでも踏み込んで、その形相を捉えようとすることが、結局時代の悲痛な呻きに対する祈りとしての表現になるのだろう。

 現代文学研究者であるはずのわたしが、シェイクスピアの勉強をやめられないでいるのも、そのようなアクチュアリティに対する問題意識に導かれてのことだ。河合祥一郎は、シェイクスピアの作品世界に溢れるパラドックスは、いずれも人間世界の混沌たるエネルギーを指し示し、ヘルメス的カオスはシェイクスピアの渾然たる世界の生命力の根源となっている、と書き、シェイクスピアにおける、アポロン的<知>に対するヘルメス的<智>の優位を論じている。ホルバインの『大使達』のだまし絵が、視点を変えれば髑髏の絵に変貌するという読解を超えて、じつは澄まして立っている大使達も髑髏も、同時に「共存」しているのだということを、実際に実験を行って証明することではじまる蒲池のアナモルフォーズ論は、ホログラムとしての世界認識を現代に問いかける。わずかに動かすだけで、像が劇的に変貌するホログラム。暗い現実という深淵の上にかけられた薄い紗のヴェールとしての海底のイメージの美しさは、日常生活の苦しみから完全に解き放たれた完璧で不滅の美しさではなくて、ほんの少し角度を変えるだけで消え去る幻であり、その背後には恐ろしいイメージが透けて見える。しかしそれだからこそ、このはかない幻は、人生という広大な海の底に沈む人々への静かな鎮魂の祈りとなりうる。細分化された世界へのアンチテーゼとして、蒲池は現代における柔軟性と全体性の復活を説くのだが、その全体性とは、今述べたように、ホログラムのような儚いものである。しかしホログラムのように刻々像の変わる不安定な全体性であるからこそ、現代のアクチュアリティを包括的に捉える祈りとしての世界認識になり得る。そしてそういう現代性(モダニティ)とは、畢竟シェイクスピアの時代から、さほど変わっているわけではないのである。

 「芸術であれ文学であれ、ものを作るとは、ポイエーシスとは、こうした手の行う営みなのではないのか。時代の無意識と共振しつつ身の内から流出してくる恐怖を、表現しようとするのでもない。それを鎮め、それから逃れようとするのでもない。それと拮抗し、克服しようとする。そのとき、捻じり合わされた両手が、自分を何かに捧げるようにひとりでに宙に上がってゆく」これは松浦である。時代の恐怖と拮抗し、それを辛うじて越えていこうとする激しい意志。文化も教養もそのような意志の表現の習得であり、その集大成であって、それはエリザベス朝の時代から、表層は変わっても深層は同じように、脈々と続いていくものなのである。そのような文化や教養の担い手や理解者が激減しているという、苦しい現状はいかんともしがたいのだけれど。お話にもならないような微力でしかないけれども、そのような時代に拮抗する祈りとしての文化継承・創造を、こなごなな大学にあってこなごなになりそうになりながらいかに続けていけるのかということが、わたしにとっての大きな課題である。

2009年12月25日金曜日

Merry Christmas 2009★新丸ビル「たる善」



東京駅付近のクリスマス・イルミネーション。
ニューヨークの街並みを再現しようとしたのだという。
かなり年上の、某大企業参与の従兄は、
この街並みを現場で作っていたらしい。
その従兄が、先週の土曜日、小樽寿司通りで
いちばん美味しい鮨屋という評判(従兄いわく)の
「すし善」からのれん分けした、
新丸ビルの「たる善」に連れて行ってくれた。




右の写真は最初に出た、肝につけて食べるかわはぎ。
灰色のはダメなので、ピンク色の肝でないとおいしくないんだとか。
最初のだけは写真を撮ったけど、後は喋るのと食べるのとに夢中で、写真なんか撮っていられず(^_^;)
5年物という巨大な帆立が出てくると、従兄は塩を出してと言う。あ、そうだった、と言いながら、板さんが藻塩を出してくれる。
天ぷらも絶対つゆじゃなくて塩で食べるんだ、と従兄は言い、わたしも頷く。
ちょっと炙ったのがミソ、というキンキも、藻塩をつけて。
いつもはたれで食べている穴子なんかも、塩味がおいしい。
焼いた頭のみそが絶品のぼたん海老は、定番だ。
次から次へと、板さんの今日のおすすめをごちそうになる。

川魚の王、鮭の大助は、毎年決まった日に、妻の小助と一緒に海から川へ遡る。そのとき「鮭の大助、小助、今のぼる」と声をかけるのだそうだ。それを聞いた人間は、3日後に死ぬという。

従兄は今年いっぱいで長年務めた会社を退職するというので、母とわたしを招待してくれた。
話していると、ポジティブで気持ちのいいオーラが、びんびん伝わってきて、
本当にこういう人だからうまくいったのだなあ、と実感した。
自分の言い分は、しっかり通すんだ。そうでなければもっと出世したかも知れないがね、と彼は笑うのだけれど。
enjoy good food and good companyという言葉があるが、まさにそれ。
シャブリを片手に、楽しい話が弾んで尽きない。
彼の放つ「気」も、わたしの精神にはごちそうで、本当に有難かった。

イギリス人はquality timeと言う、こういう時間を脳の中に累積し、そして追憶していくこと。
文学と芸術とおいしい食事、そしてそれらをめぐる時間に交錯する人々。
それがなくては人生を営むに値しないものたちのために、そしてその愉しみをもっと多くの人たちと共有するために。
そのための仕事をすることができるのならば、わたしの人生は本望なのだろう。

2009年12月20日日曜日

ロメオ・カステルッチの神曲・煉獄篇と天国篇

 にしすがも創造舎に着いたら、そこは廃校になった校舎だった。ロメオ・カステルッチの神曲・天国篇のライブ・インスタレーションの会場だ。一度に5人程しか入れないため、当日券狙いだった友人は入れず、わたしもしばらく待たされて、道路の向こうにあるカフェで、きのこのキッシュを食べながら時間を潰す。キッシュというのは生クリームと卵の生地をタルト・ケースの中で焼いて作るのだが、ここのキッシュは中身がホワイトソースで、グラタンみたいになっていて驚いた。抹茶のマフィンを頼んだ友人が、「大変なものを頼んじゃったわ!」と大騒ぎをするので覗いてみると、マフィンの中に何と「あんこ」が入っている。キッシュを開けてみたらグラタンというのも凄いが、確かにあんこの入ったマフィンというのも、始めてである。カフェ・ブームのときによくあった、オーナーの趣味に彩られた、アマチュア・チックな内装の店だ。お姉さんが毎日その日の気分で、即興でちょっと変わった食べ物を作って出しているらしい。ケーキの中にコインが入っていると何か罰ゲームをしなければならない、というのがあるけれど、確かに今日はどんな爆弾が仕込んであるんだろう、と思いながらここの食べ物を開けてみる、というのは、なかなかスリリングかも知れない。

4時15分の整理券というのをもらって、時間通りに行ったのだが、結局5時くらいにならないと、展示に入れなかった。1人出ると1人入れるというシステムになっているので、当事者側の計算よりも長い間、入った人はそこに留まっていたかったのだ、ということになる。待っている間、わたしの後ろに並んでいた女の人と、何となく話を始めると、何と彼女は地獄篇に出ていたのだと言う。Hey Girl!を観てカステルッチのファンになり、観るだけではなくどうしてもあっち側に行かなければと思って、エキストラに出させてもらったらしい。ちなみにこの芝居(というかイメージ・パフォーマンス)には、カステルッチ本人とウォーホル以外にキャラクターはいないので、エキストラというのは端役という意味ではない。カステルッチは日本が好きで、だから日本公演を最後に持ってきたのだと、彼女が教えてくれる。日本人はちゃんと規則を守って、間をきっちりと取り、その通りに演技をするからなのだそうだ。ヨーロッパのエキストラたちは、髪の毛がひっぱられると本番中なのに「イタ!(Ouch!)」と言ったり、適当に立ち位置をアドリブしてみたりと、勝手に行動するので、イメージ通りになかなかいかないのだという。ウォーホル的な匿名の個人たちを表現するのに、顔の見えない人種として国際的に有名な、日本人がもっとも適切であるというのは、頷ける話である。今日の公演は舞台劇なのだと思っていたけれど、結局台詞はあんまりなくて、最後の方のイメージの方がやっぱり強烈でしたよね、とわたしが言うと、彼女はカステルッチの「音」を絶賛していた。京都芸術劇場の、『ガリバー&スウィフト―作家ジョナサン・スウィフトの猫・料理法―』というのにも今度出ます、と彼女が言うので、名刺を頂き、チケットを頼むことに。


そうこうしているうちに中に入ると、黒塗りのボックスになっている空間の中心部分が、白く塗ってある。一瞬ぽかんとしていると、奥の方に置いてある1m立方くらいのライトの方から人がぞろぞろ出てくるので、あ、ここに入るのか、と解る。ライトは天国への導きの光だったのである。「天国」の中は、やはり黒塗りで、前方では水がびしゃびしゃと流れ落ちている。恐る恐るどんどん歩いて行ったら、効果だけではなく本当に水に濡れるので、それより前に進むことはできない。じめじめした黒塗りの空間なのに、神社仏閣にいるような感覚に襲われる。水の流れ滴る上方では、骨ばった裸体が、地獄で蜘蛛の糸を探ってでもいるような、喘ぎ苦しむようなパフォーマンスを、ひたすらに続けている。一代で会社を立ち上げて成長させたある身近なやり手の経営者が、上へ上へと登りつづけて、登った先には何もなかった、と言っていたのだが、それもこういうイメージなんだろう。地獄を経めぐり、煉獄で浄罪される、その旅の過程こそが重要なのであって、着いてしまったと思ったときにそこに開けている世界は、空虚である。ユートピアが、どこにもない場所である所以だ。フーコーは、アトピアという言葉を使っている。それでまた、ドゥルーズと伊丹十三が2人とも自宅のアパルトマン/マンションから投身自殺したイメージが、このパフォーマーに重なって視えた。あの2人はダンテ同様、しかしおそらくダンテのように究極の目的地を信じないまま、地獄と煉獄の旅に出たのではなかろうかと。

煉獄篇では、恒常的に自分に暴力を振われながら、その父の罪を赦す息子が成長して、煉獄をのたうちまわる姿に、観ている者も同化して、浄罪のイメジャリーの世界をともに経巡っているような感覚になる。観客もこうして、天国篇へ準備の階段を上っていくのである。三軒茶屋から西巣鴨に場所を変えて、天国に入ってみる。しばらく茫然とそこに立ち尽くした後、我に返って外に出ると、ここのところ家族にも友人にもその薄さと暖かさを絶賛していたヒートテックを着ているのに、急に怖気がしてきて、外気がいやに冷たい。『神曲』を視覚化した芸術家はたくさんいるけれど、彼らの描くイメージは、結局地獄篇が一番選れていることが多い。カステルッチ版も、おそらくそうだろう。天国篇の空間を出たわたしは、あの3匹の犬がカステルッチを襲い、ウォーホルの作品名とともに人々が磔刑の姿で落ちてゆく、地獄篇のイメジャリーの中に、帰りたくなった。

2009年12月16日水曜日

映画『ドレッサー』(1983)


 喜劇の題名は一般的名前であり、悲劇の題名は特定の個人の名前であると言ったのは、ベルクソンである。喜劇の題名は例えば『人間嫌い』であり、決して『ハムレット』や『リア王』や『マクベス』にはなり得ない。それは悲劇の主人公が強烈な個性であるのに対し、喜劇の主人公は類型だからである。

 それでは『ドレッサー』は、どちらになるのだろう。これはアルバート・フィニー演ずるシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優が、『リア王』の公演をする前後の物語だ。彼は「サー(Sir)」としか呼ばれず、固有名がない。サーは日本でいえば勝新太郎か三船敏郎かという「個性」であるけれども、それはシェイクスピア劇団の団長であり主演俳優だったらとりあえずこういう性格だろう、という「類型」でもあるからだ。戦時下のイギリス。劇場は次々に爆破され、若い役者はみな徴兵に取られてしまい、舞台化粧に使うコーンスターチの確保も儘ならない。厳しい戦時下であれば人間の魂にとってますます必要でありながら、当然のごとく芸術は抑圧されている戦時下の時代状況が、時代の推移を体現している上2人の娘の裏切りにあって没落してゆくリア王の状況と、重ね合わされている。映画の前半で舞台を席巻しているのは、こうした状況で錯乱状態にある、老齢のサーであると言っていい。

 サーのドレッサー(衣装係)であり、楽屋でサーを風呂に入れ、下着を洗濯し、錯乱して台詞を混同するサーにどの芝居か思い出させてやり、と何から何まで細々と面倒を見ているおカマ言葉のノーマン(トム・コートニイ)は、さしずめリア王の道化である。そういえばリア王の道化は、「道化」であって名前がない。舞台の原作を書き、映画化に際しても自ら脚本を担当したロナルド・ハーウッドが、サーをサーとしか呼んでいないのは、このことを現代に反転させた、達意の仕掛けのように思える。あくまでも主役はドレッサーなのだが、ドレッサーにドレッサーというアイデンティティが生じるのは、あくまでもサーがいるからだ。サーがいなければ、ドレッサーという主体が存在できないのは、リア王と道化の関係と同じである。芝居の最初では舞台に出ることすら危ぶまれたサーは、無事に一世一代の名演をし、若い女優をコーデリアに見立てて両腕で抱きかかえた後、呆気なく息を引き取る。最期は思いのほか静かだった。サーが亡くなると、確かに(映画の)舞台は、急にひっそりしてしまう。最期に遺言のように、観客はさることながら、小道具係、照明係にまで感謝の意を表したサーは、ドレッサーには一言の挨拶もなかった。ノーマンはそのことに憤慨しつつ、これから自分がどうして生きていけばいいのか途方に暮れる。芝居=映画はこうして、何だか尻すぼみに終わる。

 『ドレッサー』はあたかも、サーという中心を喪ってもまだ生き続けなければならないノーマンの、日常性の悲劇がこれから始まるというところで、終わっているかのようである。悲劇では主人公が死ぬところが最大のクライマックスであるのだが、この劇=映画ではそこからエンドレスなアンチ・クライマックスが始まるのだ。ヤン・コットが『リア王』をベケットの『勝負の終わり』に準えられたのは有名な話だが、『ドレッサー』はそのような現代における悲/喜劇の性質を、絶妙に捉えている。「ドレッサー」という題名の意味は、そこにある。

ちなみに、アメリカのアマゾンでUS版のDVDを買ったら、日本語字幕がついていました(・。・)

2009年12月15日火曜日

アバクロとトマトのパルフェ♪

新橋で降りて、銀座方面にふらふら歩いていたら、日本に出店していなかったことで有名なアバクロがあって、驚く。
アジア1号店なんだそう。
NYに行くとつい寄ってしまうアバクロだが、これからは銀座で買えるのね(・。・)

今日の11時にオープンだそうで、わたしが行った土曜には、
「ストア・モデル」のお兄さんたちが店の前に並んで、
人間ディスプレイをやっていた。
なかなか壮観。















ランチは銀座kanseiで。
前菜のトマトのパルフェ♪
トマトのソルベにキャビアがよく合って、美味しいです(^。^)







メインは黒毛和牛のローストビーフ。
柔らかい~♪














お芝居の後は、タイレストランMEKONGへ。
どれがおいしいですか?と聞くと、タイ人のお姉さんが全部答えてくれて、ほぼその通りに注文。
















いちばんおいしかったのは、渡り蟹と卵のカレーソースでした(*^_^*)